およぐ、およぐ、泳ぐ

不安障害です。日々のことを書いていきます。

属人的で属人的でない、どちらも嘘じゃなかった。

あるはるかのさえぐさです。

 

音楽は属人的、に、通ずることを、昨日Radiotalkでライブ配信をして考えた。

 

その「一曲」に出会い感動を覚え、「まるでこれは私に向かって書いてくれたものではないのかい」と没入するような気持ちを覚える時、その曲を書いた人がどういう人か、どういう気持ちで演奏しているのか、それこそどんなアイデンティティであろうがどんな人種であろうがどんなジェンダーであろうが関係はない。

 

出会いの瞬間は、すべての属人的な事柄から解放され得る幅というか、ゆとりというか、許される、それそのものが、他人が為す何かに感動を覚える時、なくしてはいけない大事なことのように思う。

 

ただ、同時に、「この人が、この人たちが、今この瞬間に、これをやっている」ということで、覚える感動もあるのだ。たしかに存在するのだ。それによって、勇気が出ることが、絶対に、あるのだ。

 

属人的なものから解放された感動も、属人的だからこそもたらされる感動も、両立する。無理なく両立し得ることなのだと、昨日、Radiotalkでライブ配信をして、気がついた。

 

気がついて良かったと思える。属人的であることから逃げて、むしろそれでは届かないと思っていたのに、投げ返してもらえた言葉がたくさんあったから。

 

わたしたちが、わたしたちであるから、届いたという、感触。それは、何者にも代え難いものだった。だからこうして反芻して、言葉にしておきたい。

 

属人的でない場所から始まる縁も、属人的であるからこそ始まる縁も、両方、あるのだ。あり得るのだ。あってよかったんだ。そうだったんだ。

 

ライブハウスだけでは知り得なかったことだ。その中にいるだけでは、掴みきれなかった感触だ。わたしはこの感触を、手触りを、何度でも反芻したい。何度でも。