およぐ、およぐ、泳ぐ

不安障害です。日々のことを書いていきます。

かなしいと、さみしいと

人生には、叶えてあげられることと、叶えてあげられないことがある。

 

なるべくなら、悲しんでほしくないし、もっと言うと喜んでほしいから、してほしいのだろうな、ということについては、こちらができ得ることであれば、してあげたい。

 

それでも、どうしても、どうやっても、叶えてあげられないことが、出てきてしまう。

 

もっと「普通に」(普通って、それだけでものすごいことだと思うのだけれど)、生きていくことができる身体だったならば、おかあさんが今、わたしに望んでいる、

 

「結婚をして、こどもを産む」

 

ということも、現実味を持って、考えられるのかもしれない。

 

だけれども、本当に残念なのだけれども、今のわたし、これからのわたしにとって、それはあまりにも巨大な壁で、もちろん1人でどうにかなることではなくて、1人でなんとか生きていけるようになろう、と、やっとそのスタートラインに立ったようなつもりでいる自分には、夢のまた夢、というか、それはもう、わたしの「望み」には入ってこない事柄なのだ。

 

出会いを望んでいない。

結婚を望んでいない。

出産を望んでいない。

自分1人を、これからどうやって育て直して、より良く生きていけるのか、それだけをこそ、心の底から望んでいる。

 

わたしの望みは、おかあさんの望みの、遥か手前にいる。

 

それを理解してもらうのは、もう、無理なんだろうなあということは、十二分にわかっている。

 

鬱になったことも、不安障害で障害者手帳を取ったことも、おかあさんには、話してあるのだもの。

もっと遡れば、学校に行けなかったこと、自傷行為があったこと、過食嘔吐があったこと、大学を中退してしまったこと、そういう全てを、おかあさんは、見ていたはず、なのだもの。

 

それでも、わたしがわかってほしいように、わたしをおかあさんにわかってもらうことは、ついぞ叶わなかった。

 

「わかってほしい」は、もう、叶わない。

もういい加減に、この事実を受け止めないといけないんだなあ。

 

それを受け止めたうえで、わたしの望みと、おかあさんの望みが「違う」ということを、やり過ごしていかなければ、いけないんだなあ。

 

たまたま読んでいる本の言葉が、脳裏に浮かぶ。「ネガティブ・ケイパビリティ」。ままならないことを、性急に解決を急がずに、そのままとして、受け入れておくこと。(ネガティブケイパビリティで、検索してもらうと、該当の本が出てきます。たぶん!)

 

ネガティブケイパビリティ、呪文のように、この言葉を反芻している。

解決しようのない、「望み」の違い。

ネガティブケイパビリティの考え方でいうと、やり過ごしていれば、やがていつか、落ち着くところに落ち着くって、書いてあった。

 

それを信じたい。

 

でもいまは、ただ、かなしいなあって、思ってる。わたしは、かなしい。かなしくて、さみしいなあって、思ってる。