バンドマン(女)はかく語りき

ポップス系ロックをやっているバンドマン(女)、Vo/Keyのさえぐさです。いち はじめという名義で詩、短歌、日記も書いています。

台風が来ると冷凍ドリアが食べたくなる

あるはるかのさえぐさです。

 

「台風が来ると冷凍ドリアが食べたくなる」

 

というような一文が、頭に浮かぶ。たしか銀色夏生著・「ミタカくんと私」にこのような文章が出てきて、これを読んだわたしは早速真似をして、台風が来るチャンスがあると、「冷凍ドリアが食べたくなるなあ」と書いたり言ったりしていた。本当は全くの嘘である。そんなもの、台風と結びつけたことなんて、その一文に出会うまで、微塵も思っていなかった。

 

田舎の中学生にとっては、それがなんだかとても粋な、もっと平坦な言葉で言えば「おしゃれ」に見え、ただただ真似をしたかった。

 

「ミタカくん」と「私」の関係も、恋慕と呼ぶにはあまりにもさっぱりとしており、かと言って友人と呼ぶにはいささか踏み込んでいるようにも見え、何より、この本に出てくる全ての人たちがひょうひょうとしており、それは当時の私とはまるで真逆で、そのこともまた、「おしゃれ」に見えたのである。

 

のちに、大人になってから触れた「現代詩手帖」の中では、銀色夏生は居ないことになっているというか、「あの人は現代詩ではないので」的な記述がなされており、ひどく落胆したのだけれど、間違いなくわたしの欠片のひとつは、銀色夏生氏の言葉なのだった。

 

台風が来ると何度でも思い出す。いまの私も、台風が来ても冷凍ドリアは食べたくならない。だけれども、台風からの冷凍ドリアへの着地は、何度思い返してみても、うつくしいなぁ、とため息が出るのだ。

やじろべえが立つセンターライン

あるはるかのさえぐさです。

 

またTwitterをあんまり見なくなってしまった。開会式にまつわる諸々の事柄が起きてから、Twitterを見ていると、訳がわからなくなっていくので、見るのをやめてしまった。

 

Twitterはわたしに知らない世界をもたらしてくれる一方で、知らなくてもいい世界ももたらしてくれて、両輪をちゃんと見ているつもりでも、結局は恣意的にわたしが選んだタイムラインに過ぎず、目の前の現実とはうまく結びつかないことが多い。

 

ただ、本来だったらわたしが知るはずのなかった「小さな声」を聞くことができるメディアだと思っている。大きな声は放っておいてもどこかからどんどん流されてくるから、そうではない声を見つけたときに、はっとする。

 

本当は、わたしが目にしている時点でそれは「小さな声」ではないのかもしれないけれど。もうこの社会で、センターラインを見つけようとすること自体が難しいのかもしれない。

 

でも、とも思う。

 

やじろべえのように、センターライン(と思いたい)場所で左右にぐらんぐらん揺られ、揺られた頭で考えることが、生きていくことなのかもしれない。

 

目の前を羽虫がぐるぐると旋回して上昇していく。中央線の車内は、相変わらず、適度に混んでいる。

紋切り型の夏

あるはるかのさえぐさです。

 

日々はもうすでに夏の盛り。青い空に白い雲、じっとりした湿度に灼けるようなアスファルト。繰り返された記号のような夏に、今年も息をしている。

 

ぷりぷりと怒りながら自動販売機の下を器用に折り畳み傘の柄でまさぐる男性とすれ違う。小銭がないとわかると、小言を吐いて、また次の自動販売機に向かう。手際の良さと、不穏な空気と、でも彼なりの理由があるのだろうという思いと、一瞬の身体の強張りと。

 

黄色い線に比較的近いところで電車を待っていたけれど、彼が過ぎ去るまで、線から数メートル下がって、電車を待った。もしかしたら、突き飛ばされるかもしれないと、ほぼ無意識に思ったから。

 

彼は果たしてこの車両に乗っただろうか。その怒りの矛先がこちらに向く、という確証などないのに、なぜか私はあらかじめ「準備して」いる。怒りの矛先は、私たちなんかではなく、もっともっと別のものかもしれないのに、だ。

 

ソフトクリームみたいな雲が車窓の向こうにいくつも浮かぶ。なんて紋切り型の夏だろう。いつも通りを装う夏。緊急事態下の、東京に閉じ込められた、夏。

大好きなきつねさんと、いつも現れるおおかみさん

あるはるかのさえぐさです。

 

職場に大好きな先輩がいる。齡70歳オーバーの、きつねさん(仮名)。

 

きつねさんはいつも優しい。何かと気にかけてくれる。8時間勤務ができたりできなかったりするわたしを、唯一、受け止めてくれている。それは、きつねさんの近くに、同じような状況の方がいるからだそうだ。

 

きつねさんは、あまり多くを語らない。きつねさんは、何回言っても同じことをするので、実は、他の人から少しだけ疎まれていることもわたしは知っている。だけれど、こんな風になってから、きつねさんだけが、ずっと、ずっと、優しくしてくれるままだ。

 

今朝も、こっそりアイスをくれた。どこで買ってきたのか、家からもってきたのか、よくわからないけれど、

 

「朝はちゃんと食べなきゃダメだよ!」

 

って、アイスをくれた。泣きそうになりながら食べた。アイスはドロドロに溶けてた。でも美味しかった。とっても美味しかった。

 

自分でもどうにもならないことで、どうしようもなく、ほかに手段がなく、仕事量を調整してもらっているけれど、最初は理解を示してくれていた(と思う)人は、今日、おおかみさんになった。まあ、そりゃそうだと思う。そりゃそうだと思う自分と、なぜ、おおかみさんにそんな態度をされなければならないのか、おおかみさんだってそういう時期があったとかなかったとか、言ってなかったっけ?って、思う気持ちと、ないまぜになって、しばし帰り道動けなくなる。

 

また逃げようとしている。わたしはおおかみさんが怖い。どこにいっても、おおかみさんはいつのまにか現れる。群れを作る。犬笛を鳴らす。わたしは阿呆じゃないからわかる(幻聴?幻覚?)。おおかみさんから逃げてもまたちがうおおかみさんが待っている。どこに行っても何をしても、いつも。いつも、おおかみさんが、わたしを脅かす。

 

でも。

 

きつねさんのような人もいる。そして、きつねさんのような人は、大抵、大きな声でものを言わない。静かに、わたしのような人間に、少しだけ手を差し伸べてくれる。

 

わたしはきつねさんが好きだ。でも、わたしのせいできつねさんが困ったら、とてもとても、嫌なのだ。

 

わたしはまたおおかみさんから逃げたほうがいいのだろうか。なんだか違う気もする。なんで逃げなきゃいけないのか。なんでいつも逃げなきゃいけないのか。怖いから、恐ろしいから、傷つくから、逃げてきた。別にしがみつく職場でもないことは百も承知だけれども。でも。

 

ドロドロに溶けたアイスをくれたきつねさんの声を思い出す。きつねさんの手を思い出す。働き者の、節くれだった、うつくしい手。

 

きつねさん。

わたし逃げなくてもいいのかな。

おおかみさんの犬笛を無視する強さを、あなたの存在が教えてくれている気がするの。勝手な思い込み、なのだけれど。

毎朝ひとりロッキングオンジャパン

あるはるかのさえぐさです。

 

梅雨が明けた。すっかり猛暑だ。途中経過というものをすっ飛ばして、夏はいつでも全力で日常を塗り替える。炎天下のマスクは死を予感させるし、それは冷房の(ほぼ)効いていない室内でも同じこと。だから、本当に早朝の、まだオフィスに人がほとんどいないときは、あごマスクにしている。ワクチンの予約は、当然のように取れなかった。

 

人がちらほらオフィスに出始めたら、マスクをしっかりつける。そうすると、汗がどんどん噴き出て、マスクの中に入り込む。目にも入る。ゴム手袋をしている手の中も汗をかく。汗かいてるのか手袋が破けているのかわからない。破けているのではない、と、毎回確認する。

 

なぜか、汗が目に染みない。飲んだそばから出てしまうので、塩っけすら出ないらしい。既視感がある。ああ、一昨年に行った、ロッキングオンジャパンの炎天下がそうだった。飲むと汗が出る。汗が出るから飲む。そうすると汗はベタつく暇も、塩っけを纏う暇もなく、さらさら流れて蒸発していく。そうか。毎朝毎朝、わたしはひとりロッキングオンジャパンなのだな。

 

地下鉄の電子掲示板に、「わたしはスポーツが好きです。広瀬すず」と、すずちゃんのきれいな字が表示されるようになった。達筆で、演技も上手なんて、なんて素敵な子だろう。その子の「好き」を、素直にみんなで共感できる世界だったらよかったのにな。

 

並行世界があるならば、そこでは、疫病なんか流行りもせず、夏の様々な出来事を、素直に楽しみに待ち、素直に楽しく観戦または参加できていると良い。

 

そういう妄想をしながら、明日の朝も、わたしはひとりロッキングオンジャパンだ。

ソングをシングしたい人生のために

あるはるかのさえぐさです。

 

メロディが思いついてもコードがつけられない、という状態で宙ぶらりんのまま生きてきた。コードをつけるのは同じバンドのメンバーの岸田くんのほうが、遥かにセンスがあるからだ(それがなければ一緒にやってない、プラス人間としてもとても信頼できるからやっている、向こうがどう思っているのかはわからん)。

 

メロディとコードを岸田くんが作るほうが遥かに質の良いものができる。そしてリズムは岸田くんとこまつが相談して決めて、そこに、岸田くんに書いてもらったコード譜を見ながらピアノを加えてゆく、というのが、あるはるかの1番基本的なスタイル。

 

コード自体は見ればわかる。でも、思いついたメロディにコードをつけることができない。邪魔をしていたのが、ピアノを習っていた経験で、クラシックの音の考え方と、ギター的な、ポップミュージック的な、コードの考え方っつーのが、がちゃがちゃになり、今日まで放置してきた。

 

でも、大器が晩成したから、やってみることにした。もうどうでもよい(いい意味で)。岸田くんに借りた膨大なコード進行に関する本をペラペラめくっただけで、胸のつかえが削られていくのがわかった。

 

出来ないことがある、それが怖かった。そういう自分でステージに立ってピアノを弾いているのが怖かった。言葉をつけることはいくらでも何度でもできるし、歌をうたうことの精度をあげたかった。だから10年そうした。

 

その続きの今、歌が爆裂に上手いわけではない(歌の上手い人というのは、本当に世の中にたくさんいるんですよ、残念ながら)。でも、「歌える」ようにはなった。上手いかどうかなんかは、もう、よう知らん。上手いかどうかでなく、わたしは、ソングをシングしたいのだ。

 

そのためにこの胸のつかえを今、削りに行くべきだと言っている(誰かが何度も強く言う)。だからそうする。今、怖いと思っているものの正体を分解し、理解し、手技として身につけるために、時間を使うべきだと、強い言葉が聞こえる。

 

出来ることと出来ないことがある。わたしはもう、自分が出来ないことは嫌というほど見てきた。うんざりするほど見てきたし、うんざりするほどその中で、生きてきた。でも、これは、「出来ないこと」ではない。「出来ること」だ。センスがあろうがなかろうが、「メロディにコードをつけられるようになる」は、「出来ること」だ。

 

だからやる。それだけだ。ものをつくる人でいるために。

設問

あるはるかのさえぐさです。

 

己の価値観が「なにか」とずれており、ずれていることはわかっても修正することができず(修正しようとした時期もある、その痕跡もある、が、どうしようもないとわかった)、スキルは金になるほどでなく(金になるほどにスキルを磨けるのもまた才能なのだ、残酷だけれども)、ただ違和は日々感じ、それを作り替えて「もの」として出力したいという思いだけは消えない、という人間のことを、一般的には何というか、簡潔に答えよ。

 

A.めんどうな人間

 

アンサーから導き出されたように、めんどうな人間と規定され得る、かつ、金にならない感受性を持った人間にも、消せない感情があるが、それはなにか、答えよ。

 

A.猛烈な嫉妬心

 

ふたつめのアンサーから導き出されたものは、「欲望」とも言い換えることができるが、この「欲望」を手離せないのは、まだ、金にならない感受性を持つ己に、ある渇望が残っているとも考えることができる。その渇望の対象とはなにか。答えよ。

 

A.ものをつくる人生への、渇望