およぐ、およぐ、泳ぐ

不安障害です。日々のことを書いていきます。

すきなこと(すきだったこと)を、取り戻す

気持ちが落ち込んでいる時期、辛い時期、悲しい時期は、すきなことを忘れてしまう。

 

熱を持って、憧れを持って、嫉妬に心を費やして、たまに嫌いになって、様々工夫をして、時間を費やしていたすきなことそのものを、すっかり忘れてしまう。

 

最近のわたしは、すきなことをすっかり忘れて生きている。

すきなことをたまに思い出しては、苦い味を感じて、すぐ蓋を閉めてしまっていた。

 

音楽のことです。

 

ずっと自信がなく、自信を得たと思ってもそれはするりと手から滑り落ちて、いつでも「これでいいのかな」と「これがいいんだ」の狭間で演奏していた。

「これがいいんだ」と思い続けるには、自分の力ではコントロールしきれない様々な要因が絡み合っていて、楽しさを感じると、同じくらいの悔しさや、やるせなさを感じていた。

 

そもそも、不安障害がある、ということも、今となっては見過ごせないことだったのだと思う。ずっと自分は普通になれないことに悩んでいて、でもそれは「感性」というものなのではないかと思って、何者かになりたい気持ちと、普通になりたい気持ちと、これでよいと誰かに言ってほしい気持ちと、音楽を演奏すると楽しいという気持ちと、何かを作りたいという気持ちがないまぜになって、無我夢中で駆け抜けた時間だった。わたしと音楽はそういう距離にあった。

 

すんごく演奏が手練れになることもなければ、ディーバになることも、なかった。アイドルのような美しさもなければ、目の離せない危うさも、なかった。資本社会で金銭に還元できる要素が全然なくて、わたしたちは売れなかった。売れる売れないの話にほとほと疲れて、自信のなさを自信を取り戻す行為でやり過ごすことにも疲れて、わたしは音楽から離れた。そして忘れて、たまに思い出して、うっ、と小さく呻いて、音楽は、ほんとうにたまに、元気があれば、少し聴くくらいの距離になった。

 

でも今日、2人と話をした。わたしがもう少し元気になったら、また音楽を一緒にやってくれるかい、と問うと、もちろんいいよ、とのことだった。むしろ、元気になるために音楽をやったっていいんだよ、と、言っていた。

 

そうだよなあと思って、じんわり嬉しくなって、今、これを書いてる。

 

元気になるために、すきなことを思い出す。そして少しずつ、取り戻す。それはとっても良い考え方で、わたしの苦い味のする部分に、すっと入ってきた。

 

だってバンドやってるあいだは、とっても楽しかったじゃないの、楽しかったからやっていたんだよ、とのこと。

 

そうだった。その通りです。自信のなさの苦い味は、その楽しさを味わうとどうしてもついてくる、おまけみたいなもんだった。

 

度忘れて、また思い出しておもうのは、自信満々にはなれないけれど、否定はしなくていいのじゃないだろうか、ということ。

肯定までは程遠いけれど、自分の演奏を、いわんや存在を、否定しないでいることができたなら、それは、わたしの知らない、音楽とのあたらしい距離感だ。

 

自分のことを、否定しないで、音楽と話せたら。そこには何があるのだろう。わたしはまだそれを、知らない。