およぐ、およぐ、泳ぐ

不安障害です。日々のことを書いていきます。

ボヤ騒ぎののち、鎮火

ひとさまのブログを読むのも、ツイートを読むのも、インスタを見るのも、好きだなあと思う。そこに「生活」があるからだ。

 

このようなひとが、この同じ世界に、今この瞬間に、生きており、このようにして1日を過ごしたのだなあと思うと、なんというか、じんわりする。おお、今日も1日を過ごされたのですね、そうですかそうですか、わたしも今日この1日を過ごしたのですよ、あなたの景色はそんな景色だったのですね、教えてくだすってありがとう、という気持ち。

 

自己啓発的なものとか、一攫千金とか、そういうの全然興味がなくて、ただ人がぶつぶつ言っているようなものを読みたいし、書きたいなあと思う。どうしてそれってこんなにおもしろいんだろう。落ちも山も谷もないんだけど(あってももちろんおもしろいんだけど)、それが心地よい。この感覚わかってくださる方、多いんじゃあないかしら。

 

作家さんのエッセイも、もちろん好き。でも、名も知らぬ人のエッセイというか日記も、同じように好き。当たり前のことなのだけれども、みんな本当にいろんなことを考えて生きているんだなあ、とじんわりする。こんなにも多種多様な人生が無言ですれ違っているかと思うと、この世の不思議を感じてならない。英語がもし読めたら、もっといろんな人の人生が読めるのかもしれないと思うと、ちょっともう恐ろしくもある。あまりに膨大に広がる、正解でも不正解でもない、圧倒的な「日常」に、めまいがする。わたしもそこに含まれている。奇跡的に、ラッキーが積み重なって、ありがたく「日常」に溶け込ませてもらっている。

 

また悪い病気が再発して、夜中に派遣会社の登録説明会を申し込んで、朝、キャンセルした。働いたほうがよい、と思っている部分と、こんな時間はめったにないのだから、もっとあけっぴろげにだらだらしていればよい、と思っている部分と、膨大な時間を前にして途方に暮れる、と感じている部分があって、全部がごちゃまぜになると、急に仕事を探し出して、応募したりしてしまう。謎の病気である。

 

それを昨夜やっちまったというわけで、でも今月あたまの自分と違うのは、それをちゃんと「キャンセル」できたこと。またこの流れに乗ってしまってよいのか、と、違和感を無視せずに受け止めることができた。キャンセルしといて何を偉そうに、とも思うけれど、多分、この違和感を無視したらまた失敗するので、これでよしとしよう。

 

あ、でも、これを書いているうちに、「いや、それはまた怖いことから逃げたのでは?」という反論が頭をよぎる。そうかもしれない。でも、煙のたっていないところにわざわざ煙をたてて、「ほら怖い!ほら言ったじゃん、怖いんだよ!」みたいなところが自分にはあるから、今回のボヤ騒ぎ(派遣会社の登録説明会に申し込んですぐキャンセル)は、そういう行為に近かったと思う。というか、そういう行為だろう。煙もたっていないし、のんびり過ごしていいし、むしろそれが訓練と思いなさい、なんて、どう贔屓目にみても、ありがたさが両手いっぱい、抱えきれないくらいの状況なのに、わたしはその状況を燃やそうとした。そして自分で鎮火したので、やはり、これで良かったのだと思う。

 

「安心できる」という状況がよくわからないのだと思う。だから、時間を持て余すし、安心だなあと感じられないから、常に、何某かをいかんとせんとや、みたいな気持ちになってしまう。

 

本当はもう、時計だって見なくてよい生活なのだ。日が昇ったら起きて、日が傾いたら寝るくらいの、アバウトな生活だって、実現可能な身分なのだ。そんな状況、生きていて全員に訪れるものじゃあ、ない。それくらい幸運なこと。それ、自分でわかってる?お前さんよ、という気持ち。

 

とにかく眠りたい、と思うなら眠ればよいのだ。ただ、それだけのことなのに、胸がざわざわするのは、一体全体、どうなっているのやら。