およぐ、およぐ、泳ぐ

不安障害です。日々のことを書いていきます。

「東京の生活史」の、ETV特集をみて

今日は朝からこれを見た。

www.nhk-ondemand.jp

 

岸政彦さんが編集した「東京の生活史」についての特集。本の概要はこちら。

www.chikumashobo.co.jp

 

Twitterで知って、本屋で実物を見て、厚さと値段に慄き、まだ購入できていない。そうしているうちに、あれよあれよと言う間に重版がかかり、もう3刷だそうだ。すごい。

 

ETV特集、録画しておいて、楽しみにしておいたものをじっくりと見た。

 

朝から広々とした気持ちになった。番組の中で岸さんご自身がおっしゃっているけれども、膨大な語りを通して、なにか結論めいたことがあるわけではなく、「だから何?」なのだけれども、「だから何?」だからこそ、そこにしかない温度があって、今朝のわたしはその温度に助けられた。

 

わたしも、東京に生きる人間のひとりだ。ここで生まれ育ったわけでもないし、友達だって全然いない。地域の人と交流があるわけでもない。会社員でもないし、アルバイトもまともに行けていない、音楽をやっているけれど、それも今はゆったりとしたペースで、詩を読むのが好きで、詩を書いている。

 

ようは、「何やっているかよくわからない人」だと思うし、場合によっては(いや、場合によらなくても)、「どうしようもない人」の分類にきっちり入るだろうと思う。

 

それでも、これがわたしの人生であって、今日もその人生の続きを運良く生きているわけで、そういった自分のちっぽけさ、それでも消えることはない存在の重さ、みたいなものを、「東京の生活史」は、市井の人々の語りによって、まるごと包んでくれるような気がした。

 

得難いものを受け取ると、どうしても月並みな言葉に回帰せざるを得ないと思うのだけれど、思いっきり月並みなことをいうと、「こんな自分でもここに居ていいのだな」という感慨を得た。

 

東京じゃなければ、このような自分にはなっていないだろうし、もしかしたら、このような自分でいることは「許されない」かもしれないな、と思う。これは思い込みで、昨今は「東京に縛られなくてもよい」という考え方もあるし、その考えにも大いに賛同するけれども、同じくらいの強度で、「このような自分は東京だから生きていけるのかもしれない」とも、思う。

 

東京じゃなければ許されない「幅」、東京に限らず、大都市ならば許される「幅」、地方都市、地方の市町村だとあぶれてしまう「幅」、というものがある気がする。わたしは間違いなくその「幅」の中で生きている気がする。

 

だからここに居るし、状況が許すならば、もうしばらくはこの都市で生きていこうとしているのだと思う。岸さんがおっしゃるように、「都市は自由」だから。わたしがどのように生きていようがいまいが、誰も気が付かないという「幅」。その幅の中で、今日も息をしている気がする。

 

膨大なひとの人生が、そんな浮ついた自分すら巻き取って、自己を自我から切り離してくれる。切り離してもらえたとき初めて、「わたしはこの街に住んでいる」という事実が、すっと立ち上がった。この街に住んでいる、という選択が、わたしを生かしていることそのものなのだ、と、思った。

 

東京、不思議な街だ。少なくとも、ここでは、わたしのような人間が、たったひとりではないだろうなと思わせてくれる。それはどこかさみしく、でも、心強く、なぜか知らぬが、ほっとする事実だ。良い意味でも悪い意味でも、「わたしだけじゃない」。されど、その似通った誰かと、直接ことばを交わせることは、めったに起きず、誰も彼もが「まったく違う人」に見える。根底では繋がっているかもしれない、という、ほのかな期待を抱いたまま、たくさんの人とすれ違う。そういう街に、わたしは生きているみたい。