ただひとつの問題
新しい場所に慣れることには時間がかかる。内心どきどきしっぱなしで、手もぷるぷるしているのだけれど、なぜか人からはそう見られない。いつもなぜかそうで、自分の内心と、はたから見てくれる姿の違いに、不思議だなあと思う。
どうしてこんなにびびっているのに、他人からは大丈夫そうに見えるんだと思う?と同居人1に聞いてみると、それだけきっちりやっているからでしょ、と言われる。そうなのかな?
坂口恭平さんが、Twitterで、「自分の中のただひとつの問題に逃げないで向き合っていれば、明るい未来が開ける」という主旨のことを書いていらした。(原文は坂口恭平さんのツイートを見てくださいね)
わたしの中のただひとつの問題は、つまり、「怖い」という気持ちだと思う。色んなことが怖いので、他人はすぐ怒鳴りつけてくるものだと思い込んでいるので、他人はあっさりと落胆するものだと思い込んでいるので、そういう諸々に対する「恐怖心」、それがわたしの中のただひとつの問題なのだと思う。
怖い、怖い、怖いから逃げたい、という気持ちが、いつのまにか手に負えないくらい大きくなっていった。だから病気として体に現れたのだと思う。病気にしてくれないと、からだの持ち主のわたしが、いつまでたってもその「恐怖心」に向き合おうとしなかったからだと、思う。
「恐怖心」を抱くことが悪いことなのではなくて、そこで、「おおよしよし、怖いのだね」と、相槌を打ってあげなかったことが、反省点なんだろうな。相槌をちゃんと打ってあげていたら、そして、安心できる瞬間をちゃんと感じることができていたなら、こんなに「恐怖心」が傷ついて、大暴れせざるを得ない状況になることもなかったのかもしれない。
「恐怖心」が心の真ん中にいるから、他人の些細な仕草に敏感になり、なるべくそれに「あわせて」対処しようとしてしまう。もっと引いた目で見たら、私が勝手に感じ取って、相手に合わせているつもりの行動も、的外れかもしれない。それが正解とは限らないのに、なるべく「間違えないように」、してしまう。
間違えないように、は、とっても大変だ。いくら間違えないようにしても、誰もそれが「正解だよ」とは、教えてくれないのだから。だからいつも怯えてしまう。間違ったかな、間違ったかな、と、恐怖心が追いかけてくるみたい。
間違ってもいいんだよ、間違っても、間違った途端にブチギレる人なんて、滅多にいないんだよ、ということを、からだに覚えてもらいたい。こころに覚えてもらいたい。そういうことを、試している時間な気がする。
背中の強張りが、少しずつ少しずつ溶けていきますように、と、椅子に座って日差しを浴びながら、思っている。