およぐ、およぐ、泳ぐ

不安障害です。日々のことを書いていきます。

肉、について思う

煮ても焼いても、と打ったら「食えない」と続く。しかして今週のお題は煮ても焼いても、「肉」とな。

 

自分の肉について、あまり厳密に気にしたことがない。体に肉がついてくると、同居人が即座に指摘してくれるからだ。なぜか。顔に肉がつくからです。

 

わたしの体型をずばり表せる動物がいる。「ペンギン」。「ペンギン」を見ると他人とは思えない。要は、「顔がちいさいけど、視線を下にずらしていくと、ぽっちゃり」。小さい頃から変わらない。本当に幼少期の自分から、体型はずっとこのまま。途中になんやかんやで痩せた時はあったけれど(不健康な理由で)、結局、紆余曲折を経てまた「ペンギン」に戻った。おかえり。

 

わたしが自分の「肉」を確認する目印は、「顔」と「下っ腹」。顔に肉がついてきたり、下っ腹がいつもより張り出ていると「おや、太ったな」と思う。太ったな、と思って、食べるご飯の量を減らしたり、人並みにダイエットもしたことはもちろん多々あるけれども、今はもう、「おや、太ったな。そうかー」で、終わる。

 

ステージに立つミュージシャンとしてどうなのか、と思っていたこともあるけれど、なんかそういうの別にどうでもよくなった。かっこいい人はかっこいい。もちろん身体が世間様の目にかなうような美しさを備えていたら、それに越したことはないけれど、そういう「ルックス」という要素がどうでもよい、という軸で、圧倒的にかっこいい人はかっこいいのだ。わたしはその事実をとても好ましいと思っている。

 

そういうわけで、わたしはルックスへの執着を捨てている、と思う。ルックスに執着できる人は、それはひとつの才能だ。わたしは自分の身体が「うつくしいフォルム」でいるかどうか、ということについて、考えられる脳みその容量がない。ただそれだけの違い(別の執着はあるかもしれない。「身体みないでもらえますか?」みたいな、気持ち)。

 

「ペンギン」体型は、おそらくわたしが健康でいる体型なのだと思う。なにをしようがしまいが、すとんといつのまにか落ち着いている体型は、結局病気にもなりにくいし、怪我もしにくいし、「動かす」という点において、操縦しやすいんだろう。

 

心もそれに伴ってくれれば最高なのだけれど。心の肉は、目には見えないから、いつのまにかわたしをあらぬ方向へ引っ張っていくことがあるし、ぶるんぶるんについた肉は、心の動きを鈍化させる。

 

わたしは、身体の肉よりも、心の肉について、腐心しているのだなあと、思う。

 

今ここまで書いて、わかったかもしれない。身体づくりができる人は、心の余分な肉のコントロールがついている人なのかも。わたしは、心の肉の操縦で脳みそがいっぱいだから、外に目がついているくせに、外を見ていないのかも。なんつって。

 

今日は台風一過で良い天気。金木犀の香りはしなくなってしまった。

鼻孔がまだ金木犀を探している。少しの暑さの中に、まだ余韻が残ってやしないかと、思う。