およぐ、およぐ、泳ぐ

不安障害です。日々のことを書いていきます。

坂口恭平「土になる」読書感想文

不思議な本を読んでいる。坂口恭平の「土になる」。

エッセイというには文調は堅い、と思う。小説ではないけれど、彼の思考はあちこちに飛ぶ。「躁鬱大学」のようなサービスはないけれど、坂口恭平がどんな人であるのか、人柄がわかるような、ささやかな日常が編み込まれている。

 

頻繁に出てくる哲学者や画家の名前、言葉と一緒に、同じ強度で、畑、畑を始めてから関わるようになった人々、彼を取り巻く「つくるひと」たちの姿、町の様子、町の歴史、彼の毎日の過ごし方が描かれる。

 

「躁鬱大学」のように読みやすい本ではない。読み始めは、「躁鬱大学」とは別の坂口恭平を見ているような気持ちになったけれど、だんだんにわかってくる。これは、同じ人。同じ人の中に、あっちもこっちも共存している。

 

自然体、という言葉であっているのかは知らんけど、本来ひとは、こういうものなのかもなと思う。多方面から切り取って、おしなべて同じになる、ほうが不自然で、それぞれ全く別のように見えるけれども、根っこは「同じ」。そのように、他者(この本を読んでいる読者のわたしを含めて、坂口恭平がつくった様々なものに触れているすべての人)に思わせることができるのは、容易なことじゃあない。

 

それを、あたかも容易なことだよ、と、言ってくれているような本でもある。

 

「継続すること」について、坂口恭平は繰り返し繰り返し言っている。継続することは、言葉のまま取れば、「続けること」、それ以上でも以下でもない。でも、ともするとわたしは、わたしたちは、「継続すること」を軽んじる。その果てに訪れるもの(結果、成長、など)を先に求めて、じりじり焦り、あっさりと「継続すること」をやめる。

 

でも、坂口恭平は、何もかもすべてを継続すればいいと言っているのではない。飽きたらやめる。でも、飽きるまでは「継続する」。しかもこれで固定、というわけでもなさそうで、今時点でたどり着いた答えはそう、という態度をとっている(ように見える)。

 

すごく自然に、すごくないことに見せかけて、すごいことを結果的にやっているんだなあと思う。自分にはできない、とも、わたしは思わなかった。自分にできるかもしれない、と、反対に思った。これも容易なことじゃあない。

 

「土になる」は、あと半分で読み終わる。半分まで読んでいても、何を読んでいるのか、うまく言い表せない本。でも、ずっと触っていたくなる。不思議。読むこと以上の体験が、この本がわたしの手元にあるというだけで、訪れている気がする。