およぐ、およぐ、泳ぐ

不安障害です。日々のことを書いていきます。

生きるための遺書を書くことにした

 

*長いし内容が重たいから、別のサイトに書いていたのだけど、一晩たったら「別サイトに書いてる意味」がよくわかんなくなったので、ここに載せます。ガハハ。*

 

○○○○○

 

これまでのことを振り返らなければならないことほど悲しいことはない。だってそうじゃないか。苦しかったことを、もう一度、まざまざとこの手に、この体に、思い出させなければならないのだから。だけれど、この夏、わたしはわたしを振り返ろうと思う。前置きはいらない。わたしはわたしの全てを振り返る。痛々しいこともたくさん書かなければならない。読む人に不快感を与えない自信は全くない。だから、この時点で、お互いのために、精神疾患やそれにまつわることを賢しらに見せびらかすことに嫌悪のある人は、帰ってほしい。お互いのために。

 

 

では始めよう。わたしはわたしの全てを振り返る。長くなるから読みやすくもない。でも書かないでは居れない。わたしはいま、生きるための振り返りをする。生きるための遺書を、書く。そしてもし、この「生きるための遺書」を目にしたお若い方がいたら、どうか、自分を傷つける行為だけはやめて欲しい。なんとかして生き延びたあとに、体に残ったその痕跡は、あなたの人生をちょくちょく邪魔してくるから。どうか、きれいな腕のままでいておくれ。自傷行為を重ね、うつ病と不安障害をもち、精神障害者手帳3級取得済みの、34歳フリーターになったわたしからのお願いだよ。

 


中学生の頃

 

「なにかがおかしい」と感じた瞬間のことは今でも忘れない。中学校の入学式初日、わたしは、この場所にいることの違和感を感じた。なぜか「今までとは同じではいられないのだ」ということを強烈に痛感した。その感覚は大当たりだった。今まで、「小学生」だったいきものたちが、急に、「男」と「女」になり始めた。なんて健全なことだろう。でもわたしはそれに恐れ慄いた。怖かった。色気を含んだ目配せ、恋だのセックスだのなんだの、急にどうしちゃったんだみんな、と、思った。同時期に、タイミングよく、小学生の頃に家庭内で起こっていた、弟の癇癪(暴力含む)が終わった。父親がほぼ不在の中、母親と弟の暴力に向き合っていた怒涛の日々が終わったタイミングで、「男」と「女」に変化したいきものたちで溢れかえる学校という社会に行かなければならなくなった。

 


頭がおかしくなるのは早かった。中学生1年生の夏休みに入った時、「もうだめだ」とはっきりと思った。家庭内での一件が落着したことによる安堵もあったし、13歳なりの疲労もあったのだろうと思う。「そうだ、夏休みに死のう」と決めて、夏休みの最終日に電源コードで首を絞めた。首を吊った、というところではないのが、いかにも幼い。自分の力で自分を殺すことなんてできるわけがないので、あっさりとただ苦しいだけで終わった。そうしてするりと自傷行為は始まった。

 


夏休み明け、あっという間に教室に入れなくなった。理由なんか知らない。入ろうとすると足がすくんで入れなくなった。だから保健室に逃げ込んだ。「スクールカウンセラー」というものが田舎の中学校にも浸透し始めていたし、「不登校」というのも、少ないながら当たり前にいる時代だったので、わたしは「教室には行かず、保健室で勉強し、調子が悪ければ帰るけれど、調子が悪くなければ部活には出る」という存在と化した。

 


なんのタイミングだったかは忘れたけれど(忘れることができる事柄もある)、いつのまにか教室に戻って皆と同じように授業を受けていた。ただ、腕には自傷行為の痕跡が日に日に増えており、そこだけは、居場所を保健室から教室に変えた中で唯一変わらなかった。自傷行為とかうつ病とかになる人あるあるなのか知らんが、根は結局真面目なので、勉強はふつうにしていた。その頃、内申点の評価というのは「絶対評価」(だったと思う)という謎の仕組みだったため、通信簿の成績だけは良かったのであっさりと推薦をもらい、面接のみで高校を受験し、ぺらぺらと真面目くさった顔で普通の子のふりをして、県立の高校に合格した。セーラー服の下の腕は、高校受験を終えたときも、傷だらけだった。と、思う。

 

高校生の頃

 

いわゆる「高校デビュー」をしたと自分では思っている。入学した高校は女子校で、「男」と「女」といういきものでいる必要がなかった。ただのいきものでいてよかったので、こんなに自由なのかと目ん玉が飛び出た。相変わらず腕は自傷行為だらけだったし、家庭内暴力の緊張から解かれて顔を出してしまった「蓄積されていた13歳のわたしの疲労」は、さらに捻れ、「わたしを愛せ、わたしを見ろ」と、母親に要求するようになっていた。言葉で言えばよいものを、言葉でいえないくらい捻れてしまったので、身体表現でそれを見せつける他に方法がなかった。幼かったなあ。

 


自傷行為の他に、過食嘔吐も始まった。最初は拒食だったのが、あっという間に過食に移り、これもするりと嘔吐へ移行した。入学当初の解放感はどこへやら、再び保健室登校に戻るのも早かった。保健室のベッドで横たわりながら聞く、校舎から漏れ聞こえる「日々の音」は、今でも耳に焼き付いている。「あと何単位落としたら卒業できないよ」と、担任の先生は親切に教えてくださり、這うように最低限教室で授業を受けた。それでも授業中は机に突っ伏して寝たふりをしていた。だから授業なんか何も聞いていなかった。吐きだこのついた指、全て嘔吐しているため急激に減る体重、夏でも長袖のワイシャツ、全てが歪つの塊だった。

 


それでも、数少ない心優しい友人は、声をかけてくれた。心配してくれた声も、忘れることができない。忘れることはできなかったけれど、頭がぶっ壊れたままだったので、這うように出席していた授業の途中で、耐えきれず、教室から飛び出すこともしばしばだった。勉強に集中していた子たちに、本当に頭を下げて謝りたい。バタバタ走って逃げて申し訳なかった。走って逃げて、過呼吸になりながら廊下を歩く。這いつくばって保健室に行き、袋を口に当ててもらった。過呼吸では死なない。幼かった。見せつけたかったんだろうと思う。誰もいない廊下で、ひいひい喘いでいる自分を、誰かに。多分、そこには決しているわけのない母親に。

 


母親は、わたしが「こころの病」であることを頑なに否定した。だからわたしは身体表現をやめられなかった。今でもそれは変わらないけれど、諦めた。諦められることが、大人になることの良いことだと思う。さっさと諦めるか、別のしかるべき何かにすがるべきだった。けれど、それを見つけることは、幼いわたしにはできなかった。だから、自傷行為過食嘔吐も下剤の大量服用も、し続けた。そうしてわたしの左腕は傷だらけになって、右手には吐きだこができて、げっそりとした顔のいきものになっていた。どうか、これを目にしたお若い方には、もし、身内に理解してくれる方がいないのならば、「別のどこか」を見つける方法もあるのだと知ってほしい。だけれど、その時に絶対に注意してほしいのが、「年上の全く知らない他人に直接頼ることはしない」ということだ。もっとあからさまに書けば、年上の異性または同性の誘いにのってはいけない。それは、自傷行為と同じことだから。わたしよりも何倍もデジタルネイティブなあなた方ならば、わかると思う。検索しよう。「いのちの電話」と。今ならLINEで相談できるところもある。もうどうしようもなかったら、泣きながら役所に駆け込んだっていい。公的なものに、すがろう。見ず知らずの、年上の異性または同性に、すがってはいけない。あなた方は、それくらいの賢さを、絶対にお持ちのはずだから。赤の他人のわたしと、それだけは約束してほしい。

 


そんなこんなで、もはやどうやって卒業したのか覚えていないのだけれど、まだ学校生活への希望を捨てきれなかった、そしてそれ以外の道があることを思いつきもしなかったわたしは、なんとなく大学を受験した。繰り返しになるが、根は真面目だったので、出席はしないのになぜか成績はそれなりにあり、私立大学を受験して、合格した。合格の要因はおそらく、マークシート形式、面接と小論文という名の作文が受験内容だったから。ここでもわたしは受験勉強をする機会を逸した。

 

大学生の頃、専門学生の頃

 

「お母さんはおねえちゃん(わたしの家庭内での呼称)のことを許せない」

 


これは、いつ言われたんだったか。自室の和室で天井をぼんやり見上げていたとき、扉が開いて、口を真一文字に結んだ母がわたしにはっきりと言った。多分夏だった。いや、冬だったのか。こたつが出ていた気がする。出しっぱなしだっただけかもしれない。障子越しに外光が差し込んでいた。部屋中にぼんやりとした光が満ちていた。

 


大学は、入って半年で断念した。泣きながら駅まで父親に迎えにきてもらって「もう無理だ」と告げた。何が無理って最初から無理だったのだ。また、学校という世界は、「男」と「女」のいきものの世界になった。どこにも馴染めなかった。いきなりゼミとやらが始まるし、大学なのに体育の授業もあったし、必修科目とかそうじゃない科目とか、単位とか、もう、処理できるほどの頭が残っていなかった。頭がばかになって長い時間が経っていたのに、それを無視したわたしが悪いのだ。やっぱりここでも幼かった。

 


わたしは勝手に夏休み前に休学届を出し、すぐにアルバイトを始めて(「学校に行かないのに家にいるなんて許さない」というようなことも母親に言われたような気がする、はっきりとは覚えていないけれど)、冬を超え春になる前に、これまた勝手に退学届を出した。退学届の紙は黄色い紙だった。必要事項を書いて出したら、事務のお姉さんは事もなげに受け取って、それで終わりだった。引き止められたりするのかな、と、ぼんやり思っていた18歳のわたしは、退学ってこんなにあっさりできるんだと、入学時の猥雑さと比較して、むなしい気持ちになった。

 


そしてわたしは家を出た。これ以上母親のそばにいられなかった。大好き過ぎて、でも「わたしが欲しいように」愛情をくれない(愛情はかけてくれてたのは、つま先まで沁みてわかってる。だからわたしは母親のことを毒親とは1ミリも思っていない。今でも大好きだ)母親のそばにいると気が狂いそうだった。というか、頭がもうおかしくなっていたから、仕方なかった。それ以外に方法がなかった。ひとりで教育ローンの手続きをして、専門学校の入試を受けて(これも面接だけだったような気がする)、賃貸アパートを探し、自分で新しいアパートに荷物を運んだ。全部自分でやった。どんだけ逃げたかったんだろう。幼かったなあ。

 


新しい家に引っ越した初日の夜、母親が恋し過ぎて、一人で泣いた。

 


専門学校は不思議な場所だった。同世代の人、だけじゃなかった。ここは「男」と「女」でいなくても良い場所だった。ただのいきものでいることができた。同い年の子と、ひとつ下の子と、10歳以上離れている人が、同時期に入学した「一年生」だった。みんな、自分の作品が作りたくて、この学校に入学を決めてきており、真剣に学ぶ人もいれば、そうそうに独自の道に突っ走る人もいたし、10代らしい学校生活を送る人もいれば、ここで全てを吸収してやる、という意気込みの人もいた。わたしはその中で右往左往して、街に撮影に出かけては怯え、作るとはなんなのかを考えることは楽しかった。ここで「ものをつくる」「ものごとを考える」楽しさを身につけたと思う。自傷行為過食嘔吐も下剤の大量服用もいつのまにかやめていた。いつやめたのかも、もう思い出せない。少しだけ大人になっていたのだと思う。少しだけ。

 

20代の頃

 

晴れて専門学校を卒業し無職となったわたしは、とりあえずアルバイトをした。正社員になんか怖くてなれなかったし、そんな能力もなかった。ものをつくりたい、ということは思っていたけれど、もうこの時点ですでに、「男」と「女」といういきものでいなければならない社会に放り出された時点ですでに、わたしには働く才能がなかったのだろうと思う。

 


働くことは才能だ。才能であり、人間として重要な技術でもある。しかしわたしはその技術が絶望的に下手である自覚があった。なぜなのか今ならわかるが、「13歳の時点で疲労困憊していたわたし」が、まだ、体の真ん中で救済を待っていたからだ。いつまでも大人にならなかった。大人の皮をかぶって、上手に、「ふつうのひと」として、社会に溶け込めるように立ち泳ぎをしているような感覚だった。20代で何回転職しただろう。最初のアルバイトこそ、働きを買っていただいて正社員にしてもらえたけれど、それも3年で辞めた。何かが徐々にわたしの首を絞めてゆき、いつも息ができなくなってやめた。そのあとは全てアルバイトで、色んな職種をやった。最初のアルバイトは受付事務、そのあとも受付事務、コールセンター、清掃員、倉庫作業員。在宅ワークという名のゴミクソ記事を1記事1000円で書いたこともあったし、小論文の校正をやったこともあったし、よくわからない特許関係の文章の校正をやったこともある。数えきれない。確か、一時期はトリプルワークになっていた。お金がなかったけれど、とにかく、ひとところで「きちんと」働くことができない。最初からずっととにかく「頑張る」モード一択なのだ。「手を抜く」とか「他人に任せる」とかが恐ろしくて出来ない。

 


なぜか。

 


「自分は普通じゃない」「自分は普通以下だ」というキラーフレーズが、いつでもわたしを後ろから急き立てていたからだ。これはいつからわたしの中でキラーフレーズとして定着したのか、思い出せない。捨て去った数々の自傷行為の代わりに、いつでもこのキラーフレーズがわたしの真ん中にいた。救済を求めて居座り続けている13歳の疲労困憊した中学生とともに、わたしの真ん中にいた。だから頑張るのだ。とにかく頑張るのだ。頑張って頑張って、やっと、人並みになれると信じていた。もう幼くはなかった。わかっていた。人並みになれるように頑張るしか道はない、そうして突き進むと必ず、息が切れた。呼吸ができなくなった。そうして働き続けられなくなって、だいたいどこも2、3年で辞めた。「ふつうのひと」のふりができなくなって辞めた。捨て去った自傷行為の痕跡は、消えることなく、左腕に刻まれたままだった。右手の吐きだこだけは、きれいに姿を消してくれた。

 

30代、そして今

 

ある日突然仕事に行けなくなった。予兆はあった。おかしくないように装っていた頭が、また、おかしくなり始めているのを感じていたからだ。

 


20代の終わり頃、ある日、朝の満員電車で目の前が真っ白になるほどの恐怖に襲われた。

 


「このままここから出られなかったら死ぬ」

 


一度そう思い始めると、足元から恐怖が迫り上がってきて、居ても立っても居られない。目の前が真っ白になり、次の駅までの数分が我慢できない。とにかく降りなければ。早くここから出なければ。でないとわたしは死んでしまう。怖くて怖くて頭がおかしくなってしまう。その一心で、職場の最寄り駅でもなんでもない駅で降りた。降りたあと、両手はぶるぶると震えていた。次の電車に乗ろうと思っても、どの電車も満員だった。その日どうやって自分が勤め先に行ったのか覚えていない。

 


手が震えるのは、この時だけではなかった。職場でなぜかずっと手が震えていた。震えない日もあった。夜中に恐怖で目が覚めることもあった。怖い夢を見たわけではなくて、ただ「怖い」と思って目が覚める。動悸がおさまらない。訳がわからなかったけれど、薄々気がついていたと思う。ああ、また頭おかしくなり始めたんだなあと。また、そうやってわたしを引き戻そうとしているんだなあと。

 


冒頭に戻る。そんなこんなで、ある日突然、仕事に行けなくなったのだった。その時勤めていたのは倉庫作業で、業務内容は難しいものではなかったはずなのに、自分の中で何かが弾けたのだ。「ぷつん」という音が聞こえた気がした。

 


もうあの職場に行きたくない。誰それと誰それが嫌いあっていて、誰それの派閥に入っているわたしは(入った覚えもないのにそのように入社当初からなっていた、そういうこと、あるよね〜)、いくら頑張っても敵対勢力(?)の誰それさんからは認められない。でも業務はどんどん増えていく。増えていった業務の先には別の誰それさんが待っていて、その誰それさんの機嫌も取らなければいけなくて、うんぬんかんぬん。

 


「男」と「女」といういきものとして生きているふりをしているのだけでもいっぱいいっぱいなのに、頑張って頑張って立ち泳ぎしないと人並みになれないのに、それに加算して「人間関係」というものがこんなに濃厚に充満している場所なんて、わたしにここで生きていく技術はなかった。才能は最初からない。社会の中で生きていく技術を、20代で身につけたつもりだったのに、あっさり化けの皮が剥がれた。「ぷつん」という音とともに、あっさりと剥がれて、後に残ったのは、やはり傷だらけのままの左腕と、救済を待ちわびていたと、ここぞとばかりにわめく「疲労困憊の13歳のわたし」だけだった。

 


そうしてある日突然職場に行けなくなり、職場に置きっぱなしにした荷物すら取りに行くことができず、着払いで荷物を送ってもらい、職を失い、失業保険を受給するもその金額だけで食べていくことはできず、雇用保険に加入しない形で家から徒歩5分のテナントビルの清掃を2時間だけして、あとは毎日家の中でぼんやりするだけの日々になった。

 


失業してからずっと不安が付き纏っていた。不安は割れない風船のようにどんどん大きく膨らみ、いくらメンタルクリニックで処方してもらった薬を飲んでも、先生に話を聞いてもらっても、いつのまにか顔を出していた。そして一緒に、救済を待つ13歳の疲労困憊したわたしも顔を出す。母への渇望。どんなに願っても、もう一度幼児には戻れないのに、際限なく甘やかし愛し守ってほしいと願ってしまう。13歳のわたしと30代のわたしが毎日交差した。頭はしっかりとおかしくなっていた。自傷行為をする体力はもうなかった。お若い方にはわからないかもしれないけれど、加齢すると、自傷行為をする体力もなくなるんだよ。それだけは良いことだと思う。それをしたとて、自分のむなしさが消えることもないことを、わたしはもう知っている。知っている大人に、いつのまにかなっていた。

 


ふつうのひとになれないことはもう十二分にわかったから、わたしは、もう、「ふつうのわたし」を諦めようと思った。だから新しい「名前」が欲しかった。社会にいられる「名前」が欲しかったから、先生に病名をつけてもらえてほっとした。病気だったんだと、病気だって認めてくれるのかと、それすら安堵の材料になった。先生はあまりいい顔をしなかったけれど、新しい名前をもっと確実なものにするために、精神障害者手帳を取得した。障害者手帳を取得すれば、「障害者雇用」という働き方があるということを知ったからだ。就労移行支援にも何箇所か体験に行ったし、公的に使える支援機関はだいたい使った。そうやって、失業保険を受給しながら、朝の短時間だけのアルバイトをして、その間に就労移行支援やら障害者手帳やらの取得をして、自立医療支援制度の申し込みもして、やれることは全部やった。

 


でも、わたしにはわかっていなかった。「障害者雇用」というのは、実はハードルが高い。ただ、これはみんなに言えることではなくて、わたしが自分の状況をちゃんと理解できるほどの病状じゃなかったからかもしれない。「不安」という割れない風船が最大限に膨らみすぎて、どこでもいいからわたしを雇って欲しかった。「病気があるのがわたしです」という状態で雇って欲しかったから、「障害者雇用」にしがみついた。手当たり次第に応募しては、曖昧な動機で書類選考すら通らなかった。手に入れた新しい名前でも社会はわたしを受け入れてくれないのだな、と、悟った。

 


結局、先生の制止を振り切って、ふつうのひととして、今勤めている清掃の会社にアルバイトとして入社した。

 

最後に

 

いま、わたしは、生きるための遺書を書いている。現状、勤務はできているけれど、頭はおかしいままだ。なんだったら、自傷行為ですらも、再開してしまいそうな気配を感じており、「おいおい」となっている。いまだ救済されていないと、13歳のわたしが納得してくれないのだ。疲労困憊した13歳のわたしが、まだまだ喚くのだ。まだわたしは苦しい、まだわたしは愛してもらっていない、頑張ってるね、頑張ったねって言ってもらっていないと。それと同時に、30代のわたしも叫んでいる。ふつうのひとになれないとだめなんですか、と。社会に馴染めそうにありませんし、社会というのはどうしてこうも、どうしてこうも、傷つけ合うことばかりするんですかと。どうして労り合うことだけじゃだめなんですかと。突き刺すような現実ばかりで、もう胸がいっぱいです。もうわたしは女でいたくないです。男にもなりたくないです。ただの人間でいたいです。人間でいたいけれど、今のこの社会は、わたしが生きるにはハードルが高すぎる、と。

 


でも、わたしは、それでも生きている。生きているので、こうして、遺書を書くことができる。

 


消えない左腕の切り傷は、もし、おばあさんになれたとして、くちゃくちゃの皮膚にも残っていることだろうと思う。そういう体質なのか、傷の治りが悪いみたいで、多分ここまで来たらもう消えないと思う。うつ病と不安障害の治療をはじめてもうすぐ丸2年、薬の量も診察の回数も、増えたり減ったりをゆらゆら、ゆらゆら、している。不安が大きいときは全く動けないし、今こうして「生きるための遺書」を書き殴っているということは、わたしの中で、13歳のわたしがうごめいている証拠だとも思う。わたしを外に出せ。わたしを外に出して晒して見せろ。それがお前の正体だ。おまえは、ずっと、さみしい。だけれど、おまえは、ずっと、おかあさんを、だいすきなままだ。

 


社会で生きるには、社会で生きるルールというものがあって、それに上手く沿うことができない性質の場合、本当に苦しい。きっと、この記事に興味を持ってくださった方も、そうなんじゃないかと思う。このルール、いつからあるんだろうね。しっかり大人になったわたしは、13歳のわたしに答えてあげることができない。

 


でも、ひとつだけ言えるのは、ルールに沿えなくても、どうにかしてやり過ごすことは、出来たということだ。側からみてどれだけめちゃくちゃだろうと、わたしは、ここまでは、生きてこられた。だからきっと、これを読んでいるあなたも、きっと、同じようにして、もしくは全然違う方法で、ここまで生きてきたのだろうと思う。

 


わたしは、そんなあなたに、この遺書を見せたくなった。だからここに書き殴っている。これは、今までになかった感情で、だから、生きるための遺書とした。これがわたしの全てだ。わたしの全てで、わたしのほんとうだ。これからどうして行けばいいのか、正解は、残念ながらわたしも知らない。あなたが正解だと思ったら正解だと思う、たぶん。わたしも、わたしが正解だと思ったら正解だと思うことにした、そうでないと、わたしは、あなたは、きっと、息ができなくなってしまうから。

 


苦しくなったら、どんどん「いのちの電話」やその他公的機関を頼るといい。主治医がいるならその人にどんどん頼るといい。わたしは「いのちの電話」に何回も電話したし、メールもしたし、LINEでも助けてもらった。主治医にも、週1回は絶対に診察をしてもらいに行く。それがお守りだからだ。ただ、病院は相性があるから、合わないと思ったらどんどん変えていいと思う。信頼できる場所を、人を、ひとつに絞らずに、増やしていきたい。多拠点あれば、たぶんどこかひとつで、自分にやさしくしてくれる場所があるはずだから。わたしは、昨日、いのちの電話でお話を聞いてもらって、「やさしくしてくださってありがとうございます」と言って、泣きました。

 


生きるための遺書はここで終わりです。またいつか、書き殴る日がくると思います。書き殴る日がくるということは、その日、わたしは生きているということです。だから、これを読んでくださったあなたも、生きているということです。もう一度あなたに会いたいです。わたしももう一度あなたに会えるように、また書き殴る日がくるように、願っています。

 


どうかやさしくしてもらえる場所を、確保してください。わたしもそうします。いつかの自分へ。そして、あなたへ。