遠くに在りて、思うもの
詩が書けなくなったと嘆いていたら、今日あっさりできた。一昨日書いたやつはクソみたいだったけれど今日のはするっとできたから、多分クソではないと思う。
この感じ方も当てにはならず、超傑作じゃんと思ったやつが、数ヶ月後に見返すと目も当てられないってことも結構ある。小説ではない、エッセイでもない、歌詞でもない、詩って、いつもなんだろうなと思いながら書いている。
近代詩とか戦前詩とか戦後詩とか現代詩とか、時代区分ってなんの意味があるんだろとも思う。書いた本人も、それを読む本人(今を生きるわたしなど)も、作品と出会う瞬間は「今」でしかなく、それは近代とか戦前とか戦後とか現代とか、あとから名付けられた区切りの枠をふつうに超える。
分類分けしておけば、後世のためになるわけだから、区切りがある理屈はわかる。わかるけれども、やっぱり別に「戦後詩だから読もう」というわけではないから(わたしの場合は)、「わたしにとっては」、その区切りは意味がない。
もっと開かれたらいいのにな、と思う。言うだけはタダだからいくらでも言うけど、もっと普通に詩を書く人がいっぱい居ればいいのにな、と思う。だってなんだって詩になる。それが良いものとか悪いものとかは、どうでもよくて、詩を書く、という行為そのものが、好きなだけなんだけど。その好きを、もっとあっけらかんと言えるくらいの開かれ具合が、詩の世界にあったらな、と思っている。
「サイクリング好きなんですよ」くらいのテンションで、「詩を書くのと読むのが好きなんですよ」って言えたら素敵だな。あ、でもちょっと嫌かなあ。どうだろう。嫌じゃないかなあ。
詩を好きなんて、誰にもかれにも面と向かって言えることじゃない。そのことが変だなと思う。それを口にするだけで、なんかちょっと「線引き」している感じ。こちらも、あちらも。詩にまとわりつく様々な付属品が、わたしたちから詩を遠ざけている。
詩は(他の表現もそうだけど)自由だから、正解とかないから、もっとみんな普通に書いたらいい。わたしは人が書いた詩を読みたいし、自分のも読んでもらえたら嬉しいし、人のものを読んで「おおおお」とか言っていたい。これからも。
詩と絵と写真は少し似ている気がする。なにがいいって言葉で語らなければならないのは批評のプロに任せておけばよく、どこまでもアマチュア根性で、「なんかわからんが、おおおお」って、阿呆みたいに言っていたい。それが言葉に接する「わたしの」自然体であるから。