およぐ、およぐ、泳ぐ

不安障害です。日々のことを書いていきます。

雑記と10年で変わったこと・変わらなかったこと

はてなブログ10周年特別お題「10年で変わったこと・変わらなかったこと

 

今日はこれで書いてみよう。

 

*10年で変わったこと

何もかもが変わったかなあ。性格も、環境も、全部0に戻った感じ。駆け抜けた時間を過ぎて、いまはゆっくり留まっている感じ。ライブをしなくなって、音楽はすこうし作っていて、詩を書くようになって、詩の本を作って、賞に応募したり、仕事を変えてみたり、辞めざるを得なくなったり、療養したりしています。自分がずっと足踏みを続けていた場所に、結局戻ってきて、その伏線を回収している感覚がありますなあ。

 

*10年で変わらなかったこと

収入…

 

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今日はピアノを聞きながらこれを書いている。音楽を聞くのが久しぶりだ。そういえば昨日行った居酒屋も、本当に久しぶりだった。今までは外出そのものが苦痛で仕方なかったので、昨日のように苦痛を感じずに外でごはんを食べられたことが嬉しい。

 

居酒屋で最近のヒット曲が流れていた。その居酒屋は、以前は懐メロ有線チャンネルを流していたのだけれど、昨日のチャンネル選択は違ったらしい。最近のアーティストの曲がばんばん流れており、ついつい耳を奪われる。

 

居酒屋、という空間に、現代ヒットチャートは馴染んでいるような、少しうわずっているような、そんな印象だった。懐メロだと抜群に馴染みが良いのはどういう魔法なんだろう。酔っ払っている人々の緩んだ空間には、現在の流行に1ミリでも乗り遅れまいとする現在真っ只中の曲たちよりも、すっかり手垢がついてからだに馴染んでしまったような感触の「少し前の音楽」のほうが、ぴったりくるのかもしれない。

 

少しうわずっているような、今この時のヒットチャートを、居酒屋のあまりよろしくないスピーカーで聞く。すると、自分の感覚が変化していることがよくわかる。どの曲にもぴんとこなくって、ああ、これが年齢を重ねるってやつなのかなあと思った。

 

変化していること、変化していくことそのものを、止めることなんて誰にもできない。わたしはもう、今この時のヒットチャートに胸を踊らせるわたしではなくなったのだなあと理解した。年齢、と思ったけれど、同い年でも鋭敏にヒットチャートに目を光らせている方もいるだろうから、年齢で括れる話ではないのかなあ。どうだろう。

 

高校生の自分だったら、と想像する。今この時、もし自分が高校生だったら、これらの曲たちに胸をおどらせただろうか、と、頑張って想像する。多分きっと、胸がぎゅっとなる曲と出会って、それをずっと聞き続けていたんだろうなあ。わたしという人物はいつでもわたしという人物で、10年で性格も環境も変わったけれども、結局根っこは生まれたときから「わたし」なので、時代が違って音楽の聞き方が全く違っても、感じることは同じで、その後にする行動もきっと一緒なんだろうな、と思う。

 

今高校生だったなら、youtubeで音楽をずっとずっと聞くんだろうか。サブスクリプションに加入しているだろうか。再生と同時にスマホに表示されて流れてゆく歌詞を、一生懸命読み込んだだろうな。きっとそうに違いない。CDで音楽を聞いていた、わたしの高校生の時代と多分何一つ変わらない。歌詞カードを一生懸命見つめているか、スマホの画面を見つめているか、の違いだ。根本はずっと繋がっているんだと思う。音楽に対して、ぎゅっとなって、ずっと聞いちゃうってやつ。

 

今このときのヒットチャートに胸がときめかなくなっても、音楽は無数にあって、わたしの「今このとき」にぴったり合う音楽があるのが、とても不思議だ。音楽は、尺度が膨大にあって、かたちがない、劣化もしない、腐りもしない。だから作っているほうは五里霧中になりがちなのだけれど、受け手からしてみれば、こんなに気楽な娯楽はないなあとも思う。

 

音楽をつくっている、と、堂々と言えるほど、今わたしは音楽に触れていない。バンド活動をほとんどしていない。療養しなければならなくなったから、それはもう、仕方ない。でもわたしの机には赤いピアノがあって、その上に適当な好きな本が置いてあって、その光景は、今このときのわたしそのものだなあ、と思う。

 

少しだけピアノに触って、10年ですこうしだけ上達した自分のピアノを聞いて、でも劇的な変化ではないことも知っていて、そういう音色を静かに聞く。音楽とこれからどう付き合うのか、離れるのか。どうなるのかな。流れに身を任せようと、思う。