およぐ、およぐ、泳ぐ

不安障害です。日々のことを書いていきます。

環境適応中

最近にしてはめずらしく2日空いた。2日間なにをしていたのかというと、人間らしく生活していました。

 

仕事に行き、昼寝をし、夕方にごそごそ自分の好きなことを始める。その合間に昼食や夕食を食べ、めんどくさがりつつ風呂に入り、翌朝の支度をする。朝起きれば15分で家を飛び出し、歌舞伎町のキャッチに声をかけられスルーし、仕事にとりかかる。終わって帰宅、昼寝、夕方にごそごそ、の繰り返し。

 

最近、暇なのか、「生きているとは?」とよく考える。暇なんだな。

バンド活動に時間を思い切り割いた20代が終わり、ライブハウスに出なくなって、途端にぽん、と時間が出現した。今までどこに行ってたの、というくらい、時間が手元にある。余っている、と言ってもいいくらいあり、正直に言うと、持て余している。

 

そうだ。持て余している。時間を持て余している。時間がない、時間がない、という世の中で、時間を持て余しているなんて、わたしはなんて「金持ち」なのか。換金したいくらいだ。

 

けれど、時間を持て余しているからと言って、時間めいいっぱい労働に費やすことも、この体ではできない。それをしてしまうと、この体を維持することすら困難になるから、本末転倒も甚だしく、ゆえに、「時間を持て余している」状態を、上手に泳いでいかなければいけないのである。

 

時間を持て余しているから、こうして、ブログを書いているんだと思う。ブログでいっちょかましたれ!というわけでもなく、文学に傾倒し小説を書くのでもなく、「日記」をつけているのは、時間を持て余しているからに他ならない。

 

夕方から自分の好きなことをごそごそやり始めるのだって、時間を持て余しているからだ。テレビも全然見ないし、映画も何をか言わんをや、なので、必然的に、本を読むか、何かするか、になる。

 

たまにラジオを聞く。ラジオは目が疲れないし、どきどきしなくていいから好きだ(テレビも映画もどきどきして、疲れてしまう)。ラジオを聞いているときは、社会と繋がっている感じがする。何もしていないのに、耳を傾けているだけなのに、充実感がある。ラジオとは馬が合うみたい。

 

時間を持て余しているから好きなことをしている、なんて、贅沢な人の言葉だ。だけれど、実際にその立場になると、「贅沢をしている」という感慨はなく、なんとなく不安で、手を動かしているという言葉のほうが実態に近い。案外、忙しい忙しいと言いながらも時間を捻出して好きなことをしている時のほうが、精神衛生上は良いのかもしれない。体力的に問題がないのであれば、そのほうが、「生きている感じ」がするのかもしれない。

 

かける時間は今のほうが断然多いのに、好きなことがぼんやりとしてくる。好きなことのはずなのだけれど、時間がたくさんあると、そこから得られる「快楽」は必然的に減るらしい。時間がない中でやるからこそ、好きなことの「快楽」は、賭け事よろしく倍々ゲームになっていくのかもしれない。

 

ただ、そのようにして得られる「快楽」は、まがい物かも、とも思う。もっと持続性のある快楽というのは、好きなことを好きなようにできたとか、作れたとか、そういう結果からもたらされるものかもしれない。

 

わたしが今、なんとなく不安から手を動かして作っているもの、書いているもの、に対して、「快楽」が前より得られないのは、できあがったものに既視感を覚えているから、だけなのかもしれない。自分で自分にびっくりしたいのに、「またこれか」、と、勝手にがっかりしているだけなのかもしれない。自分の作ったものに自分で飽きている。ライブをして、他者の目で見てもらうということがなくなった(なくした)から、自分の目で、自分の耳でジャッジするしかなく、それは今までに実は経験したことのないことで、この「閉じた状況」に、少々面食らっているのかもしれない。

 

だから安易に、「もういいかな」という気持ちも頭をよぎるし、持て余した時間に対して不安に思っているのだと思う。人生ではじめての環境なのだ。わたしはいま、なんとかそれに適応しようとしているのかもしれない。

 

そうであるならば、適応できるまでもうちょっとやってみたほうがいいんじゃないか、という気がしてくる。すぐに「もういいかな」と思って、色々辞めてみたくなるけれど、今わたしはまさに、環境適応中なのだ、きっと。だから戸惑いもあるし、不安もあるし、やめたくもなるし、自分に飽きもする。変化の途中だから仕方ないし、人生ではじめてなら、上手に乗っかれなくても、仕方ない。

 

ここまで書いて、もやもやがちょっと消えたのだから、わたしは安い人間である。時間は持て余しているけれど、根が安い人間でよかった。しばらくこのまま、様子を見つつ、手を動かせばよい。