およぐ、およぐ、泳ぐ

不安障害です。日々のことを書いていきます。

モヤイ、憧れ、日曜日

あるはるかのさえぐさです。

 

Twitterのアイコンを、自分で書いたモヤイにした。髪型はいまの私に似せてある。概ねメンバーからは好評だ。似てる、とのことだったので良しとする。いらすとやさんのモヤイ像を見ながら自分で書いた。我ながらよく出来たと思う。いらすとやさんありがとうございます。

 

モアイ、なのか、モヤイ、なのか、よくわからない。厳密には違う、というSEO対策ばっちりのウェブページがずらずら出てきたから、たぶん違うんだろう。どっちでもいいから、どっちでもいい。ページを開いたので、これで誰かの広告収入に寄与したのだろうか。見えないお金がどこかからどこかへ、流れてゆく。

 

昨日はradiotalkで朝と夜、生配信をした。夜の生配信で、「わたしは人の話を聞くのが好きだ」と言った。ヤマもオチもなくていい。その人の生きてきた時間を聞くのが、たのしいなと思う。完全に、岸政彦さんや、少年アヤさん、こだまさん、雨宮まみさん、上間陽子さん、の影響なんだけれども。

 

もちろん各著者の方が出版している本は、世に出るだけの「ヤマ」や「タニ」があるのだと思う。でも、ご本人たちは、ただただ丁寧に、つぶさに、自分を、他者を、周囲を、街を、世間を、世界を見つめ、書いているような気がする。それが一冊の本になり、どなたとも縁もゆかりもない私の手元に届き、読むことで私の中に「他者の生きた記録」が残り、重なっていく。

 

よく想像する。あのビルで働くような人生は、どんなだろう。あの建物で暮らすような人生は、どんなだろう。どんな自分になっていただろう。こんなふうに生活して、こんなふうに仕事をして、こんなふうな格好をして、こんなふうに、こんなふうに、こんなふうに。

 

調子が良いときはそれは「憧れ」で、調子の悪いときはそれは「妬み」や「焦燥」になる。そしてこの場で今すぐ溶けて消えたい、というような思考の末端まで行き着いて、また、元の場所に戻る。

 

それでもお腹空くしなあ。指は痛いしなあ。身体は、生きているしなあ。

 

自分は自分に憧れられない、と、岸さんが「大阪」の中で書いていた。自分の未来や過去に憧れることはできるかもしれないけれど、いま現在の自分には、憧れることができない、そういうようになぜか人間はできている、と。他者に憧れ、もしその他者に自分がなれたとしても、もうそれはすでに「他者」ではなく「自分」になるから、絶対に、自分は自分に憧れられないのだと。

 

憧れられない。到底、肯定できない日があっても仕方ない。だけど、自分の身体は、腹を空かし、睡眠を求め、やるべきことをやり、ピアノを弾き、喉を震わせてうたをうたう。指を動かして言葉を書く。どこまでもどこまでも、肯定と否定とその狭間を繰り返して、心臓が止まる日を知らずに、息をしている。

 

たいそうなことを書いているうちに、瞼が降りてくる。早朝に起きると、二度寝したくなるタイミングがこの時間にやってくる。こころと身体は一緒で、別だ。眠たい。日曜日の、晴れた朝が、もうそこにいる。