およぐ、およぐ、泳ぐ

不安障害です。日々のことを書いていきます。

雨上がりの庭

あるはるかのさえぐさです。

 

洗いざらしたままの髪で家を出た。路面が濡れていたことで、夜に雨がやってきたと知る。夜中の雨が止んだ後、朝が来た通勤の道は、心なしか「たっぷり」としており、違う景色に見える。

 

こういう時、いつも、瞼がシャッターだったらいいのになあ、と思う。写真の専門学校に行っていた時もよく思っていたこと。うつくしいな、かっこいいな、と思ったときに、瞼がシャッターだったならば、カメラを構えることなく、瞬時に形に残せるのに。

 

カメラを構えて被写体に向かうことは、いつもどこか恐ろしかった。いわゆる「スナップ」というものがまだ成立していた時代だったし(今も素晴らしい作家たちはたくさんいるだろうけれども)学校の演習でも、上野のアメ横やら、様々な場所で、スナップを撮った。

 

でもいつも私は、カメラを正面に向けることができなかった。怖かった。「何撮ってんだよ!」と怒られる、怖い、怖い、と思っていたし、カメラを持って街を歩くことは、いつもどこか怯えを伴っていた。

 

そうやってびびりながらも、早朝の歌舞伎町をひとりでスナップして歩いたことがある。「怖かった」しか記憶にないし、何を撮りたかったのか、何を撮ったのか、もう覚えていない。

 

ゴミが散乱して、人はほとんどいなくて、お勤め帰りのホステスさんやホストのみなさん、そして多分そのお客さん、または、ホテルから帰るであろう大人のみなさん、と、すれ違った。すれ違うとき、カメラを持っている自分を咎められるんじゃないかと、気が気じゃなかった。でも、誰もいない、ぎらぎらが終わったあとの歌舞伎町を、見てみたかったんだと思う。

 

それから私が撮るものは人ではなく、「人の生活の痕跡」になった。洗濯物をよく撮るようになった。でもこれも、行き着くところまで行ったらそのあとどうして良いかわからなくなって、やめた。

 

カメラを向ける、ということは、相手が人間だった場合、または、その人の生活圏だった場合、了解を得ていないとしたら、それは時に暴力になり得る。カメラを向ける、写真を撮るということは、極端に言えば、暴力と隣り合わせなのかもしれない。

 

それでも、「うつくしいな」と思った瞬間が、突然目の前に現れたとき、ためらいながらもシャッターを切るような人が、写真の道に進む人なんだろう。

 

私はいまはもう全く写真を撮っていないけれど、あの学校で学んだことは、私のこころの真ん中にいる。怯えながら、戸惑いながら、何をうつくしいと思い、怖くても何に手を伸ばしたいと思うのか、形作ったのは、あの3年間だったと、思う。