およぐ、およぐ、泳ぐ

不安障害です。日々のことを書いていきます。

出番を待つ「おしゃれな靴下」

今週のお題「お気に入りの靴下」とな。

 

「おしゃれな靴下」グループと、「がんがん使う靴下」グループの2つが、わたしの衣装ケースにはある。同じ「靴下クラス」として配属されてはいるものの、その使う頻度たるや、「おしゃれな靴下」は正味1年に2回3回履けばいいほうだ。今思い出したら、そうだった。

 

「がんがん使う靴下」は、ほぼ「黒」で構成されており、同じ形の靴下が何足もある。そういうようにしておくと何がよいかって、右だの左だの、迷わなくてよいのだ。さっと取って、さっと履く。その繰り返しをしているうちに、「おしゃれな靴下」グループはどんどん衣装ケースの端に寄り、今や「がんがん使う靴下」に圧迫されている。現実生活の、確かな重みよ。

 

数年前までは、「おしゃれな靴下」グループが、もっと悠々自適に衣装ケースの中で鎮座していた。今日は何を履いていこう、なんつって、ちゃんと「選ぶ」こともしていた。今日のスニーカーはこれだから、今日の靴下はこれ。ちいさな選択を、繰り返しの毎日の中で、毎朝行えていた日々のことを思う。どうしてあんな風に生活できていたのでしょう。同じ自分とは到底思えない。

 

靴下に連動するように、服の種類もぐんと減った。パンツはほとんど黒の、ゆったりとしたシルエットのもの。上は、パーカー3種類にセーター2種類、インナーの七分袖は全部黒。夏はTシャツに黒インナーで過ごすし、冬はTシャツがパーカーまたはセーターに変わるだけ。下着は一年中ブラトップ。ワイヤー入りの下着は、もう捨てて何年になるだろう。

 

こうやって、靴下から徐々に徐々に自分を構成しているものを振り返ると、自分の変遷が見えるようで面白い。こころが本格的に調子が悪くなるにつれ、身につけるものには「快適さ」が一番重要なこととして、置かれていったようだ。着心地がよく、ストレスの少ないもの。なるべく「選択」をしなくてよいもの。決めておくこと、の心地よさに、今日はどんな気持ちかなと、身につけるものを選択する煩悩は勝てず、捨て去られていったよう。考えたくなかったんだねえ。

 

今日わたしの履いている靴下も、「がんがん使う」グループから、ひょいと1秒で選んだもの。分厚くて、破れなくて、夏はちょっと暑いけれど、冬でも全然履ける黒いもの。確かワークマンプラスで5足買ったんだった。少しずつ冷えてきた東京の毎日にも、重宝している。この靴下とスリッパを履けば、冷える冬のフローリングだって、なんのそのだ。

 

「おしゃれな靴下」グループを、先日、捨ててしまおうかと思った。けれど、何かがわたしを引き止めて、いやいや捨てるまでいかんでもいいのでは、と、思いとどまった。今はたしかに、おしゃれな靴下を履く気持ちではないかもしれない。きれいな色の、薄い靴下や、反対にもっこりとした毛糸の靴下、どれもこれも、とんと履いていないのだから、このまま置いておいたら場所を取るだけ。そう、場所を取るだけなんだけれど、場所を取るだけで、他には何の害もない。

 

そうであるならば、「場所を取るだけ」に目を瞑って、「おしゃれをするとき」がくることを、静かにここで待っていてもよいのではないか。今は毎日家にいるけれど、いつかまたお外に元気よく歩き出すときに、「おしゃれな靴下」グループの子たちが、意気揚々と、わたしの足もとを飾ってくれるときが、あるかもしれないのだから。