おこころの病院、他人の視線から外れる
ASMRとは呼ばない、BGMと呼ぶのがぴったりの、クラシックだかジャズだかが流れている待合室にいる。
この頃の混み具合からして、恐らくここから2時間は待つだろうなあと、ぼんやり思う。
最初から座って待つことができたのはラッキーだった。それを狙って早めに来たのだけれど。混み合ってくると座る場所がなくなり、立って待つか、外出せねばならなくなる。外出するのは、「いつ呼ばれるのかわからんな」という懸念と共に時間を過ごすことになるので、やったことはないけれど、わたしには到底合いそうもない。
しかして、こうして、やっとこさ確保した席に座り続けて、ぼんやりぼんやり、自分の名前が呼ばれるのを待つことにする。
もうここに通ってそろそろ2年になろうか、という具合だけれど、最近の混み具合はすごい。でも、よくわかる。健康に生活を送っていた人でさえも、こうも世の中がずっと「なんだか変」な状況になれば、不具合が出てもおかしくはない。かつ、そもそもちょっと調子が悪い人にとっては、いまの世の中は、大袈裟に言えば「戦国時代」のような気持ちがしても、おかしくはない。
かく言うわたしもその1人で、つわものどもがゆめのあと、のように平日をどうにかやり過ごして、週末のこの時間に滑り込む。ここでの時間は休息でありお守りであり、もっと強い言葉で言えば、「命綱」。ここをなくしてしまったら、わたしは、しゅっと蒸発して消えてしまうだろうな。居なくなる、とかじゃなくて、ありえないけれど、まるで煙のように蒸発して気化してしまう気がする。人間のテイを保てないような、気がする。
ここにいる人はみんなそうなのだろうか。そういう人もいればそうじゃない人もいるだろうな。向かい合わないように配置されたひとつひとつの席からは、待っている人の後頭部しか見えない。それで良いし、それが良いのだと思う。他人の視線から外れること。個室の中で、自分の話に耳を傾けてくれる他人とだけ、視線を言葉を交わすこと。ここにはその場所が用意されている。その場所が守られている。