およぐ、およぐ、泳ぐ

不安障害です。日々のことを書いていきます。

穴の底から、穴の側へ

あるはるかのさえぐさです。

 

この前久しぶりに「終電のうた」を歌って気がついたけれど、わたしは、大分前から「立ち上がれないほど叩かれても尚 見つけた光が君の力だ」というようなことを、他の曲たちでも、手を替え品を替え、書いているようだ。

 

なぜだろう。いつも視線は地べたすれすれのところにいる。もっと的確に言うなら、地べたですらない。わたしはいつも「穴の底」から見上げている感覚がある。穴の底から世間を、世界を、穴を上手に避けて歩いていく人々の靴底を、見つめている。

 

その感覚が最も鋭利だったのは、おそらく、10代から20代だったと思う。加齢という素晴らしい援助を得たおかげで、今は、大方の時間は穴の外にいることができるようになった。

 

ただ、それは街中に溶け込めたということを意味せず、ただ、街の主だった雰囲気、世間の主だった雰囲気、世界の主だった雰囲気から、どこか外れた場所で、それをぼんやりと、眺めているような感覚に近い。

 

恐らくわたしは、這い出た穴のすぐ側で立っている。だからたまに穴の底に戻る。街が、世間が、世界が、尖ったものを突きつけてきて、それに耐えられなくなった時、慣れ親しんだ穴の底に戻って、うずくまる。獣のようにうずくまる。ひたすらに眠る。穴の上から降ってくる音や、光が、自分の敵ではないと感じられる時まで、うずくまり続ける。

 

でも、やっぱり、果たしてしばらくすると、日の光が恋しくなる。街の音を聞いてみたくなる。だから頭をもたげて、穴の底から、見上げるようになる。そうしているうちにいつのまにか、また、穴の側に立っている。

 

アシタカは、曇りなき眼で見定めよ、と告げられ、旅立った。森のコダマたちが彼を惑わせずに行くべき道を示してくれたのは、彼が、曇りなき眼だったからなのだろうか。サンはなぜ、ヤックルの言葉がわかるのだろうか。どうして2人は、共に、己とは違うものたちの「声」を、聞くことができるのだろうか。

 

曇りなき眼とは程遠い、わたしの霞がかった視界にいま、見えるのは、尖った、街の、世間の、世界の、断片だ。

ここにコダマはいない。行く道を示してくれるのは何か。穴の底に戻らずに、穴の側で立ち尽くして、ゆらゆら、ゆらゆら、揺れている。