およぐ、およぐ、泳ぐ

不安障害です。日々のことを書いていきます。

半分逃げて、半分残る

あるはるかのさえぐさです。

 

今朝の出勤音楽はSINGERSONGERの初花凜々。暑くもなく、寒くもない今朝にぴったりだった。

 

朝から黙々と内職を行う。1時間でだいたいどれくらい作れるのかわかった。ラジオを聴きながら手を動かしていると、ぼんやりしてくる。ぼんやりできるようになったのは良いことだ。やり始めはいつでも「まだこんなにある…」になるけれど、始めたら数は少しずつ減っていく。そうすると、ぼんやりできる。

 

ラジオがあまりにも面白いときは声を出して笑っている。引きの画でみたら怪しいことこの上ないが、誰も起きていない部屋ではなんの問題もない。

 

誰かに「眼差されない」空間は、わたしにとっては至極大切なものだ。普段から誰も見ていないなんてことは承知の上で、それでも、割り切れない気持ちになることが、どうしてもある。悪意ある視線の応酬をみたときに、その応酬の蚊帳の外にいるはずなのに、いつまで経っても慣れない。昔からそうだった。思えば、思春期のはじまり、中学校に入学したときから、この「視線の応酬」にわたしは挫折していたのかもしれない。怖かった。良い視線の応酬でも、悪い視線の応酬でも、どうして人は、誰かを、眼差さずにはいられないのか。

 

眼差すだけならば、100歩譲ってまだ良くて、眼差しの先に見え隠れする、場所のインセンティブを取ろうとする人、取れないけれど本当は取りたいから、陰で何かを企む人、インセンティブを持った人から距離を置き、置いている人どうしで輪になる人、どれもこれも、頭が小学生のままだったわたしには、難しかった。

 

今もまだ難しいままで、人と人のあいだにいると、なぜか、どうしても、見えない小石につまづいて尻もちをついている。いつもそこから逃げてきた。言語化できない小石が胸に溜まると、溜まり切ると、いつもそこから、逃げた。

 

今も仕事場から本当は逃げたいと思っている。でも、こまつが教えてくれた。心の中では、他人を「切って」もいいんだということ。誰も彼もの顔色を伺う必要はないこと。自分にとって良いことを施してくれるならば、甘んじて受け入れれば良く、それ以外の部分で嫌なことをしているならば、心の中で、「切って」よいということ。それが「他人と自分の境界を持つ」ということなんだ、と。

 

だから今回は逃げない。ちょっと半分嘘ついた。半分だけ逃げて、半分だけ残る感じにした。うまく利用する、なんてことを、あんまり考えてこなかった。まるでいい子ちゃんぶっているけど、そこまで、頭が回らずに生きてきたから。

 

春が終わり、梅雨が来る。梅雨が終わったら、暑い暑い夏だ。夏の頃にわたしは、いったい、何をどう、思っているかな。