さみしくてやさしい、エンパワメント、生活
あるはるかのさえぐさです。
昨日から頭の中をCoccoちゃんの「SATIE」がかけめぐっている。ずっと鳴り止まずエンドレスで流れている。
シングルカットされた曲ももちろん好きだけれど、「SATIE」のような、アルバムに入っているちょっとした曲も大好きだった。「SATIE」は、シンプルなアレンジのスローテンポの曲で、Coccoちゃんのやさしい歌声を味わうにはぴったりの曲だ。歌詞は、さみしいのだけれど。さみしいけれどやさしいので、好きだ。
復帰後の宇多田ヒカルにも同じことを感じていて好きで、椎名林檎も大好きだけど、林檎さんはこれとは反対というか、こっそり「エンパワメント」してくれているのが、とても格好良い。潔くPOPアイコンを引き受けながら、そこから今の彼女が発する言葉は、林檎節でそうとは見えないかもしれないけれど、読むと確実にわたしたちを「エンパワメント」している。
東京事変の「緑酒」、PVめちゃかっこよかったな。大人とは、そしていまの大人として世に発する言葉とはこうであったなら、さらに言うならそれに説得力を持たせるためには、彼らと彼女のスーパーな音楽的底力があってこそで、誰にも真似できないなと思う。
星野源にも同じことを感じる。星野源はもっとやわらかに、生活、というものをじっとじっと見つめ、それを彼の音楽を通して広く届けてくれる。歌詞は頭に入ってこない、という聞き方もあるけれど、わたしはやっぱり言葉が好きなので、言葉でも「見つめているもの」を発してくれている音楽が好きだ。星野源も、POPアイコンを引き受けながら、それでも「生活」を見つめている。そしてそこからの「創造」を見出そうとしている、気がする。
同じ時代に生まれなくとも、いまは色んな音楽にアクセスできるようになった。それはどんな文化も同じことで、こんな僥倖は、昔じゃ考えられなかった。いま、例えば、誰でもいい、「文豪」と呼ばれる人が生きていたなら、誰もが知るような「作曲家」が生きていたなら、溺れるようにたくさんの作品に触れようとするんじゃないかと、妄想したりする。
でもどうかな。一切を排除して、己の中を、己の目に映るものを、じっとじっとじっと凝視してつくるやり方だってある。
いまのわたしは、たくさんのものに触れながら、それでも動かぬ石のように、自分の中にある「何か」を、作るものに投影させたいと、思っている。