胸が潰れる
自分の、自分たちの、ちいさなちいさな、されどもかけがえのない日常が、ある日突然大きな力によって脅かされたら、人は、どれほどの恐ろしさを感じるだろうか。
ウクライナの街にいる、きっとわたしと似たような生活をしている、名も知らぬ、誰かの今日を思っては、胸が潰れそうになる。
戦車がすぐそこにいるわけではない。空爆を今この目の前でされているわけではない。けれども確かに、自分では到底太刀打ちできようもない大きな力が、すぐそこに迫っていて、自分の生活の基礎となる「国」という単位を、脅かしている。
そんな中でも、きっとお腹はすくし、生活はしなければならないのに、一体どんな思いで、ごはんを食べたのかなあと思うと、悲しくて、いたたまれなくて、胸が潰れてしまう。
この、今目の前にある、ちいさなちいさな、でも大切な生活が、為政者によって、軽んじられるという、恐怖と、屈辱と。
一体どうして、2022年にもなってまだ、戦争なんて言葉を聞かなければいけないのだろう。
どんな言葉を並べたって、その人の中で「整合性」がとれてしまった後の、為政者の頭には、何も届かない。
やるのだからやるのだ。
きっとそういう理由なのだ。
そんな理屈を前にして、市井の人々の生活の、なんと心細いことか。どうしてこんなに軽んじられなければならないの。
今日、亡くならなくてよかった人たちが亡くなって、また明日、亡くならなくてよかった人たちが亡くなるかもしれない。
今日、なくならなくてよかったはずの生活がなくなって、また明日、なくならなくてよかったはずの生活が、なくなるかもしれない。
今すぐやめてほしい。誰にも怖い思いをしてほしくない。日本の片隅で、本当にそんなことを思ってる。ウクライナの人も、ロシアの人も、いわんや世界中のどんな人だって、今日、おいしくごはんが食べられて、あたたかい布団で眠れますように。明日がちゃんと来るって思って、眠ってほしい。そんな生活があってほしい。