およぐ、およぐ、泳ぐ

不安障害です。日々のことを書いていきます。

泣きながら思ってる

ロシアとウクライナのことを考えてしまう。

東日本大地震のときと、同じだ。

目の前の世界に大きな出来事が起きると、途端に、心をすべて持っていかれてしまう。

現実の理不尽さを、忘れていたわけではないはずなのに、その圧倒的な力や、暴力を目にすると、わたしの心はパンクする。

 

どうしてこんな目に遭わなければいけないの。

どうしてこんな思いさせられなければいけないの。

 

わたしは被災者でも、戦争が起きている国の人でもないのに、まるでそこにいるつもりになって(なんておこがましいんだ)、悲しくて、やり切れなくて、怖くて、不安で、たまらなくなってしまう。

 

情報を情報として処理ができない。

その情報の足元にある世界を、そこに佇むしかない名前も知らぬ誰かの今日という1日を、想像して、悲しくなって、やり切れなくて、涙が出てしまう。

 

わたしが泣いたところで、ここで傷ついたところで、何一つ事態は解決しないし、それでわたしの日常生活に支障が出たとして(たとえば仕事を休んでしまうとか)、実際にわたしが立っている世界(家とか職場とか)に迷惑がかかるだけで、何一つ、ほんとうに何一つ、意味なんてないのだ。

 

それでも涙が出てしまうのは、悲しくてやり切れないだろうなあと想像しては、胸が千切れてしまうのは、わたしのナイーブが過ぎるからなんだろうか。不安障害という病気だから、なんだろうか。

 

昔からいつもそうだった。誰かの悲しみや痛みを目にすると、自分の心が痛くなった。ちいさなことでも、今回のような大きなことでもそれはおんなじで、暴力に晒されているような感覚がして、胸が潰れた。

 

潰れた胸が、痛くて痛くて、頭がそれでいっぱいになって、自分はなんて無力なんだろう、無力でやるせなくて、こどもみたいに泣いて、吐き出すことしか、できなかった。

 

今わたしがやれるとしたら、募金くらいで、今日涙を流すのならば、募金をしたほうが何百倍もマシで、募金をするためにはお金が必要で、お金が必要なら働かなくてはいけなくて、だからわたしは、わたしの日常を自分の手で壊すんじゃなくて、泣いてもいいから、明日からまた、今日までのように、ちゃんと働いて、任された仕事をきちんと行うべきなのだ。

 

1日でもはやく、この戦争が終わってほしい。誰も、誰一人、怖い思いをしないでほしい。安心できる日がきてほしい。

 

泣きながら思ってる。思ったまま、明日もわたしは仕事場に行く。