およぐ、およぐ、泳ぐ

不安障害です。日々のことを書いていきます。

競いたくなる生き物とリングから降りる行為

競いたくなる生き物なのだろうな、と思う。

ただ「0→1」にする行為に喜びを感じ続ける「だけ」で生きていくには、人間のOSは脆弱ではないかな。

 

話をでかくするな。私の話だよ。

 

女という性別の自覚を持ってしばらく経ったころ、いつのまにか「リングから降りたい」と思うようになっていた。

なんの「リング」か。今となっては曖昧になってしまった。なんの「リング」から降りたかったのか。でもありありと思い出せる。「評価されたくない」「誰かの目にうつりたくない」。

 

インディーズバンドもやっている癖になんたる矛盾。エンターテイメントの世界はそれこそ「リング」そのものとも言えるというのに。

 

齟齬は軋轢を産む。心が軋んで身体も軋んだ。柱がたわめば母屋は倒れる。早く歳をとりたかった。もっともっと早く歳を取って、何者でもないものになりたかった。女でも男でもない人間になりたかった。これもエンターテイメントの世界とは食い合わせが悪い。早くそういう世界になればいい。少しずつなりつつあることを願う。

 

詩の世界は、もっと風通しがいいのかと思っているけれど、どうなんだろう。もはや女流詩人なんて言葉はないと信じたいけど。

女だからって子宮の話をしなければいけないわけではないし男だからって精子の話をしなければいけないわけではない。それを語りたければ語ればいい。

だけど私は性のことを語りたくない。子宮のことも精子のことも生理のことも性行為のことも。

 

ここまで書いて気がついた。私は「性にまつわる諸々」のリングから降りたかった。今も降りたい。「性にまつわる諸々」のリングから降りたい、降りたまま生きていきたい。そしてそれが通用するか確かめたい。詩の世界で。音楽の世界で。矛盾している。矛盾したまま競おうとしている。違うリングにあがって競おうとしている。リング自体を作るところから始める必要があるのかもしれない。

 

ただ、いま、今日この日々に、女でも、男でもない、何者にもなりたくない私がいる。そしてそのまま、戦いたい「何か」がいる。

それだけがわかる。