(不安障害と)生きるってこと
今日はこれで書いてみよう。
気分転換がとても苦手だ。
例えば、イラっとすると、そのあとに憂うつがやってきて、不安がきて、かなしさがやってくる。今日、いま、まさにそんな感じだ。
テレビをぼんやり見て笑えばいいことは、わかっている。でも、テレビを見る気に「なれない」。見る気にならなくても見てりゃいいのだけど、目が滑って、焦点が定まってんだか定まってないんだか、内容が頭に入ってこなくって、テレビのなかの人たちはこんなに立派に働いているのに自分ときたら、と、よくわからない方向に思考が傾いていく。
今までどうやって生きてきたのか、最近、ちぃとも思い出せない。まるで物心ついたばかりみたいに、毎日毎日、どうやって過ごしていけばいいんだっけ、と、思っている。
でもひとつだけ、できるようになったことがある。「お風呂に入ると良い気持ちになる」と知れた(感じられた)こと。
仕事を終えて、冷えて凝った体をお湯であたためると、よく眠れる。こういうことに、そうだったそうだった、と、感心する。
今日もお風呂には入ることができた。
10年ちょっとバンドをやっていて、苦しいこともたのしいこともあって、ずっと自分が「不十分」な感じ、「自分は何かの基準に、永遠に達しない、自分はいつでも不十分」というのはあったにせよ、バンドをやっている時間というのは、「何をすればいいか」がとてもわかりやすかったから、不十分は不十分なりに、生きていることができたんだろうな、と思う。
今は、そこがぽっかりしてしまった。
その穴を、ギターやろうかなとか、ピアノやろうかなとか、書道やろうかなとか、資格の勉強してみようかなとか、ヨガやってみようかなとか、何だかどうして埋めようとしていて、でもどれ一つとっても実現させていなくって、あれ、毎日って、どう過ごすんだっけ、これでいいんだっけ、これで間違ってないんだっけ、って、誰にともなく、問いかけている。
まだまだ仕事を始めたばかりで、これからどうなるかわかりゃしないのに、どうしてもどうしても、「自分は不十分な人間なのだ」という思考が、ぺっとりとくっついて離れない感じ。不十分だから、なにか付け足さなくっちゃ、今まではバンドがあったけど、今はおやすみだから、仕事ができるようになったんだったら、早く何かを付け足さなくっちゃ、と、思ってる。
不十分なんかじゃないのにね。不十分なんかじゃないんだよ、ほんとうだよ。ほんとうだよ。
自分の中の自分に、言ってみる。
さて、ここまで書いてみて、自分の今日のかなしさが、少しわかった気がする。こうしてひとつひとつ文字起こしすることが、気分転換なのかも、しれない。