およぐ、およぐ、泳ぐ

不安障害です。日々のことを書いていきます。

流れにのって

今週のお題は「今月の目標」とな。今月の目標といえばこれしかない、「(なるべく)欠勤せずにお仕事に行く」。

 

端的な目標で我ながら清々しい。当たり前のことを当たり前にできるのは、尊い。怒られが発生するよりも「諦め」が発生したときのほうがたちが悪いので、「諦め」が発生しつつある先月の勤務態度を顧みて、今月は目標だけでもこれを掲げておく。

 

休まずに仕事に行けていたのは、一体何年前まで遡ればいいのだろう。アルバイトをはじめた10代の頃は、そりゃあひどいもんだった。よくあれでクビにならなかったと思う。今よりも敏感で、今よりも鈍感だった。休みます、と堂々と電話を繰り返していたし、相手の怒気を少しばかり孕んだ声色にも気づいていたはずなのに、結局欠勤していたわけだから。

 

20代のころは少しばかりマシになり、全く休まずに仕事に行くという「当たり前」ができていた数年もあった。しかし、休まないかわりに、数年で何かに行き詰まり職を変えていた。休まないでいると、どんどん自分のハードルがあがっていく。流れに乗ってしまえば流れていけるのだけれど、それは「流れているふう」を装っているだけであって、本当は淀んでいる。まわりだけが流れていて、自分はその中州で「どうしよう、どうしよう、どうしよう」と草をぶちぶちむしっているような感覚。一緒に流されてしまえばいいのに、泳いでいけばいいのに、泳いでいるように見せかけるために少しだけ服を濡らしたりして、でも本当は泳いでいけないので、水に体をつけてはすぐに中洲に上がり、「どうしよう、どうしよう、どうしよう」の繰り返しだった(イメージの話)。そしてついには、むしる草がなくなり、「ギブアップします!」と、退職するのでした。

 

前前職は、「ここならずっと働けるかもしれないなあ」と思ったところだった。珍しく中洲にあがって草むしりをすることもなく、たまに休むけれども、その休みさえキープしていれば皆と同じように流れにのって泳いでいくことができた。当たり前のように良いことも嫌なことも良い人も嫌な人もいたけれど、環境が自分に向いていたのか、はじめてスイスイ泳いでいる感覚だった。でも、自分が望んでもその環境が自分が泳いでいることを許してくれないこともある。突然の事業所閉鎖で仕事がなくなって、どんなに自分が向いていると思って、泳力に自信がついてきて、まわりもその泳力を少し認めてくれていても、全く関係のないところから、根こそぎ流れ自体が奪われることもあるんだと知った。

 

そこで多分結構絶望したんだと思う。絶望したのに、その絶望を絶望として受け止めず、受け流そうとしてしまった。そうすると、人間の体や心はよくできているもので、後から必ずその「絶望」がやってくるのである。「やあ、あの時きみが受け流した絶望です」と、挨拶よろしく心の中に住み着く。そうして、全く関係のないタイミングで、絶望が心に去来するようになり、動けなくなり、新しい仕事もやめて、無職になって休んで、なんとかよっこらしょと立ち上がり、今の職場にたどり着いている。

 

と、ここまで書いたら、外からなぜかエヴァンゲリオン発進の音楽が大音量で流れてきた。台風一過の風に乗って、例の音楽がどんどん聞こえてくる。運動会なのだろうか。今日は気持ちよく晴れてよかった。こどもたちが走り回る姿を想像する。グラウンドが上手に乾いていますように。うまく走り回れますように。わたしも今月をうまく走り回りたい。なるべく、流れにのっていけますように。