およぐ、およぐ、泳ぐ

不安障害です。日々のことを書いていきます。

生きる権利

あるはるかのさえぐさです。

 

とあるものを目にして、非常に辛く悲しい思いをした。これを読んで、わたしが何を見たのか、ぴんときた賢しい読者の方々におかれましては、どうか、その、「わたしが目にしたもの」を、見に行かないでほしい。見に行くことをこそが、彼の収益となり、結局は、彼の言葉を利することになるからだ。

 

生きる権利とは、なんだろうか。これは、権利なのだろうか。権利ではなく、最低限の、最後の、砦なのではなかろうか。わたしは生活保護の相談をしたことがある。わたしの場合は条件に見合わず、結局は受給できなかったけれど、窓口の方は、わたしの場合は、それは親切に話を聞いてくだすった。しかし、声色から、親切さと同時に、とても身構えていることもわかった。

 

窓口の方は、おそらく、様々な、本当に様々な方の対応をしているのだろう。親切さと、身構える声を、同時に身につけなければならないという状況を思うと、本当に頭が下がる思いだ。

 

同時に、わたしは、とある縁で、生活保護を受給している方々の待ち合い室に居合わせたことがある。こちらも、様々な、本当に様々な方がいた。

 

そのときに、わたしは、恐らく生活保護を貰いに来たであろう男性に、すれ違いざまに道を譲った。ただ道を譲り、男性を先に通しただけのことだ。それに対して男性は、滔々とわたしへの礼を述べて、あなたにはいいことがあると言い、同時に、ここに集っている人々を(男性自身のことも含めて)、なじった。それはそれは大きな声で、蔑んだ。

 

彼の喉から発せられた言葉は、彼らがそのまま、世間から向けられている言葉だ。わかっている、わかっている、と、彼は主張するように、大きな声で、なじっていた。

 

生きる権利とは、なんだろうか。生活保護にアクセスできた人はまだ良くて、それにすらアクセスできない・しない人々だってたくさんいる。毎朝目にする。そんな彼らを、どうしてそこまで、排除するのだろうか。明日、自分が、そのようにして、床に寝そべるしかない、階段に座り続けるしかない、ということは、1ミリも、コンマ1ミリも、頭にないのだろう。

 

「じゃあ路上生活者の人とハグをしろよ」だとか、「生活保護費でパチンコしてるやつ、ブランドバックを買っているやつを許せるのか」とか、簡単に反論が予想できる。ちがう。論点をずらさないでほしい。こちらは、生き死にの話を、している。

 

考えてもみてほしい。生活保護費をブランドバックに使うということが、どういうことなのか。パチンコに使うということが、どういうことなのか。それを批判する思考に至れるのは、あなたが、この社会に溶け込んでいるからだ。この社会から弾かれたら、一度弾かれて、驚くほどその社会へ戻る壁が高かったら、どんな気持ちになるのだろうか。わたしは、途方もない気持ちになる。途方もなく、むなしく、むなしくなる。

 

「ズルをしている人がいる」という反論も簡単に想像できる。論点をずらさないでほしい。こちらは、生き死にの話をしている。

 

ズルをしているひとなんて、生活保護を受給している人の中にだけいるわけじゃない。「ズル」と呼ばれるものを、ふつうの顔して行うことができる人というのは、それこそ「ふつうに」居るのだ。そのへんに。あなたの隣にも、わたしの隣にも。

 

社会通念が彼らを救わなかった。だから社会から弾かれた。社会と社会の隙間にはまって身動きが取れなくなった。それを、「必要のない命」と断ずるお前は、なんだ。お前の命と彼らの命の価値は、稼いだ金で決まるのか。納めた税金で決まるのか。わたしはそう思わない。わたしは生き死にの話をしている。お前の下品な言葉は、お前が「いらない」と言った人々には残念ながら届かない。その手前の、溝に落ちるか落ちないかの人の、呼吸を、浅く、苦しいものにするだけなんだよ。

 

わたしの言葉が、お前に届かないのと、一緒だ。お前に届かなくていい。お前に向けて書いているんじゃない。わたしは、生き死にの話を、している。いま、ラインからこぼれ落ちてしまうかもしれない、その状態で揺れている人に向かって書いている。私も含めて、そのような状態の人に向かって、書いている。

 

わたしは生き死にの話をしている。わたしたちには、等しく、生きる権利がある。絶対にある。それが生活保護受給者だろうが失業者だろうが路上生活者だろうが。お前に生存権を預けた覚えはない。わたしたちには、生きる権利が、ある。