およぐ、およぐ、泳ぐ

不安障害です。日々のことを書いていきます。

語りかける

いま、目の前に自分の話を聞いてくれる準備を整えた人がいたとして、一体どれくらいの人が、その人に、話しかけるだろうか。

 

話しかけたとして、その中の何人が、どこまでのことを、その他者に、語りかけるのだろうか。

 

わたしは、他人に自分の話をするのがとても下手だ。0か100か、そういう話し方ばかりしてきた。だから、「話さない方がよかったのか」と、あとから気がつくことが多い。相手が急に引いてしまってから、「ああ、そこまでのことを話す必要はなかったのだな」とか、「ああ、この人にこの話をしてしまうと、こういう結果になってしまうのだな」とか、そういう、バカみたいなことを、何度も経験している。それから、100を話してもいいのかな、100を話したいなと思った相手には、話すときにすでに期待をしているので、語りかけたその他者の反応が、自分の頭の中とズレた時に、勝手に傷つく。傷を修復する術がいつまで経ってもわからず、つまりは時間や距離が解決するもののようだから、傷つくことが、「厄介で面倒」になった。

 

傷つくくらいなら、0の状態のほうがまだマシで、何故なら自分のことを開示せずにひたすらに他者の発する「音」に耳を傾けていれば、それに対して向き合っていれば、他者はわたしの「音」に興味を示さない。わたしの中で蠢く、きしむ、高らかに響く、吠える、様々な「音」を、無いことにできる。

 

でも、他者の「音」を聞き続けてばかりいると、「厄介で面倒」なはずなのに、三度、また、他者へ自分のことを語りかけたくなる。何故なのだろう。「厄介で面倒」な、はずなのに。

 

こうやってわたしの中の「音」は漏れ出してゆく。また傷つくのかもしれないのに、結局は、漏れ出すのを止められないのだ。だって止める術は、時間でも距離でも、ないから。