およぐ、およぐ、泳ぐ

不安障害です。日々のことを書いていきます。

ツイフェミ、フェミニズム、思想、おもちゃ

あるはるかのさえぐさです。

 

また口に出して言うことが怖くなってしまった。また、私の身体からその言葉は遠のいた。フェミニズムの話です。

 

何かの「運動」や「問題提起」が起きたとき、そしてそれが、何かのタイミングで多くの人に知られるようになったとき(私もそこから学び始めた)、そこにはたくさんのグラデーションが存在して、先鋭化していく人たちが出てくるんだと思う。それは、フェミニズムの話に限ったことじゃない。ヴィーガンの思想だったり、政治の話だったり、それこそ宗教なんて、その最たるものかもしれない。

 

先鋭化することは誰にも止められないし、先鋭化して非常に強い言葉で非難を発することを、止めることはできない。そしてそれに対して尚先鋭化した言葉で非難を返されても、それを止めることもできない。

 

何が言いたいのかわからない、はっきりイエスかノーで言え、と思われるかもしれない。だけれど、私が思う「フェミニズム」は、その、「イエスなのかノーなのか」ということ自体、ジャッジメント自体を「みんなで」辞めていくことはできないのかなあ、ということを含んでいる考え方、思想だと思っている。

 

この「みんな」には、男女を問わない。「みんな」は「みんな」。内在化されたジャッジメントによって、どうにも悲しくむなしい、そういう気持ちや体験に寄り添うもの、が、「フェミニズム」には含まれていると私は思っている。

 

無意識の正義は怖い。「これが正しいのだからこれを受け入れない人は○○だ」と言いたくなる気持ちはとてもわかる。でもそれは、それこそ「ジャッジメント」そのもので、人は、立脚点が変われば見える世界は変わる。環境で変わる。何が楽で何が楽じゃないか、なんて、真剣に考えれば考えるほど、定量化してジャッジできるものじゃないと思い至る気がする。

 

わたしは、「ジャッジメント」を辞めたい、辞めて欲しい、自分にしてほしくない、というところから、フェミニズムに出会った。男性嫌悪に陥っているだけなのではないか、と、今でも自分を振り返るし、もし男性嫌悪だけから何か言いたいだけならば、わたしは、「黙る」。

 

グラデーションをグラデーションのまま、受け入れたいのだ。そういう世の中になったら、少なくとも私は、今よりちょっといい世界になりそうだなあと思っているから、学ぶ。

 

学ぶことを辞めたら、流れは滞る。生きていきたいから、わたしはこれからもフェミニズムを学ぶ。おもちゃにされている動画をみて、傷つくような心を守ってやるために、学ぶ。学ぶことをやめない。