ワクチンを打たない
どんなに周囲が手を尽くしても、耳を貸さない人はいる。コロナワクチンの話。打つ、打たないは個人の自由であることと、打たないことによって(それはもしかしたら打ったとて大差はないのかもしれないけれど)「誰かにうつす」ことよりも、「万が一の副作用が出るのが恐ろしい」という気持ちは、わかる。
でもわたしがわかるのは、ここまで。
「打って副作用で死ぬんなら、コロナになって、コロナの治療してもらって、それでもダメならもう死ねばいい」って、同僚のシルバーの方が朗らかに言い放ち、それは、それはいったい何なのだ、と、悲しく、そして怒りが、湧いてしまった。
「自分はコロナの治療をしてもらえる」という自負はどこから来るのだろう。その治療を請け負うために、どんなところに皺寄せがきて、どんな気持ちになっている人がいて、それは、この人の目にも耳にも届かないのだと悟った。
いくら頑張ったって、どう何を頑張ったって、こういう考えの人は一定数いて、だから、7月までに接種を終わらせるなんて、到底無理なことだよ。
わたしが働いているのは繁華街のど真ん中のオフィスビルの清掃。その同僚の、シルバー世代の方が、そういう考えなんだもの。(もちろん、接種するって言っている人もいたけれど)
感情には、科学的根拠では届かない。リスク0なんてものはありえない、といくら説明したって、「じゃあ私がその『リスク』にヒットしたら、どうするの?死ねってこと?」って言われてしまったら、返す言葉もない。
でも。
「コロナになって死ぬほうがマシ」なら、ワクチン打ってくれよ。どうして、打てる権利が優先的にあるのに、それを放棄するのか、わたしにはわからないよ。
みんなのために、って、わたしは思って怒っているのかな?だとしたらそれは全体主義だ。みんなのために、じゃなくて、自分のことしか考えないんだな、そういう人が、一定数いて、このくにのなかでは、大きな力を持っているということに、そのことに、怒ってしまったのかな。
自分のことを守れるのは自分だけ、という反証がすぐに頭に浮かぶ。
正解が、見当たらない。正解が、見つけられない。