むき身のこころ、流れ流され
あるはるかのさえぐさです。
開き直る、素直になる、は、健やかな心身への第一歩だと思う。たぶんそれは肯定につながる。諦めと肯定は、セットなんじゃないかと思っている。諦めは悪い言葉ではない、はずだ。だのにものすごく強い刷り込みで、
「諦めてはいけない」
が、身体の真ん中に居座り続けている。
これはなぜなんだろう。気質、環境、複雑に重なって、今となってはどこが起点かわからない。
諦め、ということが、自分の中で返す刀で自分のこころに突き刺さる。なぜ?誰も何も言っていないのに、昔からそうだったなあ。
いくら諦めを悪と決め込んでも、区切り、は、やってくる。望もうとも望まなくとも。時間の流れってそういうものだ。時間の流れは時にひどいな、と思うこともあるけれど、本当は、やさしいものなんじゃなかろうか。
時間が流れれば、もう限界、もう無理です、と気がつく前に、自然に握力が尽きる。いつのまにか食い下がっていた、掴み続けてもう正体がぶっ壊れている何か、から、手を離すことができるのかもしれない。自力で「決断」する、言葉で「断定」するよりも、遥かに自分に優しい。
これを人は「先送り」というのかもしれないが。だって弱いから。あなたはつよいひと?それならこの話に多分、用はないんだ。
わたしは弱い。今のところ、ここが起点で、原点なんだろうと思う。