およぐ、およぐ、泳ぐ

不安障害です。日々のことを書いていきます。

inside you

あるはるかのさえぐさです。

 

最近自分が15歳くらいに戻ったみたいだ、と感じる。学校までの通学路、行きも帰りも、誰もいない田んぼを横目に、ずっとずっと同じ歌をうたっていた。当時はスマホなんてものはなく、ガラケーで、ポータブルで音楽を聴くといえばポータブルCDプレイヤーかMDプレイヤーが出たか出ないかのころで、当然真面目なわたしは恐ろしく厳しい学校に怯えていたので(自転車通学の誰それが、ヘルメットの顎紐を外していた、というだけでボコられる学校だった)何の機器も学校に持って行かず、必然的にアカペラで、大声で、同じ歌を何回も何回も歌っていた。

 

こう書くとまるで「歌が大好きなわたし」みたいに見えるけど、そういう気持ちはなかった。ただ口から、なにかを、胸に詰まるこのなにかを、自分では言い切れない何かを、音楽にしてくれた人の力を借りて、とにかく外に出したかったんだと思う。

 

なんでも忘れっぽいわたしが、あの通学路の些細なディテールまで覚えているのは、きっと、目に映るすべてが、歌うことによって、まるでひとつの映画のように思えてならなかったからだと思う。この映画のなかでは、わたしは主人公で、どんなに怒っても泣いても嘆いても、許された。音痴だろうとなんだろうと、帰り道に歌い、そのうちその癖は家に帰ってからも止まらず、一度母親にキレ気味に「歌うのやめて」と怒られたことがあった。

 

あのときあったのは、「歌いたい」でもなんでもなかった。「歌いたい」なんてはっきりした言葉ではなかった。ただ、ただ、掴める藁がそこにあったから、それは自分が真似できること、自分でできることだったから、息を吸って口から音を出せば良かったから、その藁にすがった。しがみついていた。しがみつきながら、溺れていた。

 

いまは溺れてはいないと、思う。自分ではよくわからない。大人になったら、「溺れる」体力や気力すらも湧かないんだと、思う。でも、藁をつかむ力だけは残っていて、私はいま、誰かが作ってくれた音楽にまた、一生懸命掴まっている。

 

この逡巡はいつか終わるのだろうか。終わったときこの世界は、私の目にどう映るんだろうか。私の目には今、世界が、まるで映画のように見える。