ファイティングポーズを降ろす
ファイティングポーズを降ろすことのほうが、難しいかもしれないなあと、ふと思う。
一度構えた拳は、安全である、戦う必要などない、ここに敵はいない、これ以上望む必要はない、とか、本人の腑に落ちる、確固たる理由が必要なんだろう。
ずっとファイティングポーズを取ったまま死んでいく人だっている。きっとそれは多分、体力のある人かもしれない。
自分はどうだろう。いま、ファイティングポーズを見失ったことに、落胆しているかもしれない。
人生の目標。成し遂げたいこと。それがなくなったとき、結婚も出産も考えていなくて、きちんと会社員になることもままならない自分は、これからどうやって、日々を送るんだろう。
ファイティングポーズしていたときのほうが、きっと、簡単だったなあ。
でも。
ファイティングポーズを降ろしたら、新しい何かが、空いた手に触れるのかもしれない。触れないかもしれない。掴めるのかもしれない。むしろそれがなくても、息が、しやすくなるのかもしれない。
承認欲求、成し遂げて何かを残したい、残して決着をつけたい気持ちは、きっと、「決着がついたあと」「勝負に勝ったあと」のことを、知らないからだ。
勝った瞬間に、時間は止まらない。成し遂げた瞬間に、時間は止まらない。
これも、最近観た、ディズニー映画の受け売りなんだけども。
答えが必要って誰が言ったの?誰に言われたの?どうしてそう信じ込んでいるの?誰からそこに縛られているの?
と、問われているような映画だった。刺さった。
こうやって当たり前のことに、やっぱり帰結してゆく。帰結して腑に落ちて脱線してまた戻る。そうやってきっと、生きていくのかも。