およぐ、およぐ、泳ぐ

不安障害です。日々のことを書いていきます。

一分間

あるはるかのさえぐさです。

 

仕事場は繁華街にある。必然的にたくさんの飲食店やカラオケや、雑多なお店がひしめき合っている。

 

仕事帰りにカラオケ屋の前で「どうする?どうする?」と言い合っている人をよく見る。カラオケから出てくる人もたくさん見る。見えないストレスに世の中全員が晒されていることと、関係があるのかはわからないけど、声を出す、歌をうたう、ということの快楽は、とてもよくわかる。

 

仕事場では、昨日、今日と黙祷の時間があった。昨日は、3月10日。東京大空襲があった日。今日は、3月11日。東日本大地震があった日。

 

職場の同僚の方々は、わたしよりうんと歳上の人がほとんど。さすがに東京大空襲の世代の人はいないけれども、東日本大地震は、30以上年齢が離れていても、同じように体験している。

 

あの日わたしはどこにいて何をしていた。あの日俺はどこにいて何をしていた。どんなに年齢が上でも、みんなが同じように、昨日のことのように、忘れずにいた。非常時のことは、どうしても饒舌になる。どんなに自分が大変であったか、という話が、それぞれから、わっと溢れ出た。

 

でも、もし。もし、この話に加わっていない人の中で、この同じ部屋の空間で静かに座っている人の中で、東北にゆかりのある方がいたら、と、頭の片隅で思っていた。

わたしたちの10年。東北にゆかりのある方の10年。それは似て非なるものだと、わたしは思う。思いを馳せることすら、もしかしたら烏滸がましいかもしれない、と思うほどに、東北にゆかりのある方の心中を思えば思うほど、何一つ「適切」な言葉が見つからなくなる。きっとずっと見つからない。見つかるわけがないと、思う。

 

仕事中に14時46分になった。一分間の黙祷をしましょう、というアナウンスが流れた。私は扉を拭いていた。せめても、と、音を立てずに、静かに扉を拭き続けた。静かに一分間、10年前と今が地続きであることを思いながら、扉を開けて拭き続けた。