およぐ、およぐ、泳ぐ

不安障害です。日々のことを書いていきます。

残った言葉

あるはるかのさえぐさです。

 

昔の人はよく言ったもんだ、と最近よく思う。昨日の暖かさを消し去るように今朝は恐ろしく寒い。また冬が来た。三寒四温、という言葉を考えついたひとは天才だ。

 

駅に続く道で看板が倒れていた、段ボールや空のペットボトルが散乱していた。夜中に強い風が吹いた痕跡がくっきりと、残っている。

 

昨日は夜明け前と感じた同じ時間、今日はうっすらと日が昇るのを感じた。反対側には沈む前のお月様もいらっしゃった。

 

一時期見かけなくなった、キャリーケースを引いて歩く人をちらほら見るようになった。ここではない、うんと遠い場所に行くのかなと思うと、すこし羨ましくなる(ただ荷物が多いだけだったら、本当にお疲れ様です)

 

発車ベルが鳴るか鳴らないかのタイミングで、誰かのiPhoneが反応した。Siriが「もう少々お待ち下さい」「問題が発生しました」とのこと。問題はいつでもどこでも転がっている。Siriが正解だと思った。

 

昨日、岸田くんがLINEで「イノマーさんのドキュメンタリーをTVerでみた、ふたりも見るといい」と珍しく熱く勧めてくれた。こまつはすぐに見たけれど、私は向き合う体力がなく、そのまま眠った。

 

岸田くんは、イノマーさんの生き様に胸を撃ち抜かれたようだった。こまつは、残された側の人の気持ちを想像しているようだった。2人のどちらの気持ちも、尊いとわたしは思った。

 

いつか人は必ずこの世から身体がなくなってしまうし、その時期は本人も周囲も選べない。いつだって当たり前の言葉に戻る、「明日生きているかなんて誰にもわからない」。その通りだ。

 

病気になることも自分が選んだわけじゃない。治る病気か治らない病気かどうかも、誰にも選択権は与えられない。もし、治らない病気にかかって、人生が終わる時期がだいたい予想されるような状態になったとき、本人とその周囲が、終わるその地点に向かって、本人が望む終わり方に向かって、ひとつずつ行動していくことは、「思い遣る」という気持ちの交換なのだと思う。

 

思い遣る気持ちの交換、それ以外に言い表せる言葉を私は思いつかない。思い遣る気持ちの交換があったなら、きっと、選ばなかった選択でもたらされた望まぬ結末でも、この世を去った人ではない他者の生を通して、いつか何かが「芽吹く」のではないかと、思う。

そういう月並みな希望を、私は持っている。