およぐ、およぐ、泳ぐ

不安障害です。日々のことを書いていきます。

他意のないもの

友達がわたしたちのラジオを聴いてこんなことを言ってくれた。

https://twitter.com/tieosada/status/1359824773941850115?s=21

 

それで今日、大好きな社会学者の岸先生のにがにが日記を読んでいたら、

にがにが日記

https://kangaeruhito.jp/article/43989

 

この日記に対しての引用ツイートで、こんなことを言っている方がいた。

https://twitter.com/kirieteee123/status/1359852986818732043?s=21

 

時代がものすごいスピードで動いていく。その中で生きていこうとすると、たくさんの、「今までなかったことにされてきた声」が耳に届く。目に入る。私はそれに共感したり、新しく吹いている風に対して、希望を得たりしている。そうか、自分はこうしたかったんだなって気が付いて、バラバラになっていた自分が、新しい接着剤でくっついていくような希望もあった。これからは、そういうものを大事に、あえていうなら「自分の中の1番」に据え置いて、生きていきたいと思っていた。

 

でも、友達が私たちのラジオを聞いて書いてくれた、「別れ道に話が終わらなくて、それぞれの家になかなか帰れないまま日が暮れる」だとか、岸先生の日記だとか、それに対する感想を書いている方の、「生きている人の生きている他意のない話をひさしぶりに聴いている気がしたし、なんか勝手に応援されている気すらした。(@kirieteee13さん、2021-2/11のツイートより引用)」って言葉に、はっとした。

 

なかったことにされてきたものが可視化されるようになったのは、戦う誰かが居たからだ。戦いのあとが後世に引き継がれて、あるタイミングをもって、小さな声があがりはじめて、やがてそれは大きなうねりになって、ただ、たまたまこの時代に生きている私のような市井の民まで届くようになった。

 

でも。「生活」ってそれだけじゃないんだ。

 

他意のない、なんの結末もない、ただ流れていく時間があって、そこに向ける目を閉じてしまっては、私は一体どこの地面に「立っている」と言えるんだろう。

私が生きている地面は、時代がうねり、それと同時に一人ひとりの「他意のない生活」がある。そんな地面のはずだったよな。

 

そんな地面から見えるものに、感動したり、傷ついたり、考えたりしながら、呼吸してきたんじゃ、なかったかな。

 

これからも、新しく耳に届いた「今までなかったことにされてきた声」には耳を傾ける自分だろうし、それに共感を覚えたならば、私はきっとそれについてしつこく考える人間だと思う。

だけど、同時に、「一人ひとりに他意のない生活がある」ことに向ける目を忘れないようにしよう。

 

生活はマーブルでグレーで、だからこそ愛おしいものだったはずだ。

 

思い出したな。

わたし、写真の専門学校に行ってたとき、作品として、人の家の洗濯物(どこのお家か特定されるようなものじゃなく、遠くから、小さく撮ってました。不快にさせてしまったかもしれない、ごめんなさい)やら、路地の狭間やら、生垣の隙間から見える光ばっかり撮ってたんだよ。

それは、それこそが私にとって「とても美しいものだったから」なんだ。